三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

ケツが痛い、目が疲れる

え~、勉強していて「疲れたな~」ってなるときの原因が①お尻が痛い②目が疲れている、のいずれかもしくは両方なのではなかろうかという話。

 

「もう今日は勉強できね~」って思う時、頭が疲れてるって思いがちだし、僕もそう思うことが多かった。

 

でも、最近「これ、頭が疲れてると言うよりも、お尻の痛さと目の疲れを脳が『疲労』と読み替えてるんじゃないか?」とふと思った。

僕が通っている某予備校の椅子はパイプ椅子で、柔らかいとは言い難い素材でできているため、長時間座っているとお尻が痛くなる。

 

そして、僕は通信生だから長時間スマホで講義を視聴する。

 

「この二つが原因か~」と少し腑に落ちた。

 

だって、「もう集中できない」ってなるほど頭使ってないのに疲労度は以上に高かったから。この1年ほど。

 

頭働いてないのに疲労感があるのは、なんというか罪悪感があるというか。

 

これからは気兼ねなく疲労を感じることができる。

 

おわり

失意の財務会計論

数学と言い、財務会計論と言い、僕は授業に付いていけない人間だ。

 

数学の授業に付いていけなくなったのは、高校1年の時。

塾での授業も含めるなら、中学2年生の頃には塾ではすでに置いていかれていた。

 

その後数学で、授業に追いつくことは無かった。

受験も良く分からないまま準備して、よくわからないまま終わった。

 

財務会計論でもおんなじような状態になりつつある。

 

ここ最近の講義(ビデオ)で、講義中の理解度は10%くらいだ。

完全に置いていかれた。

 

復習を怠った自分が悪い。

授業に付いていけてない癖に復習をしないのは高校時代から変わっていなかった。

 

これで「僕は頭が悪いからできないんだ~」みたイに思ってしまったら終わりだな。

復習を怠っていたのだから分からなくて当然だろ。

 

かえって「僕は頭が悪いんだ~」と言う方が逃げだな、この状況においては。

 

いや、なんかスパルタになってしまったな。書いてる事が。

本心と裏腹な事書いてしまった。

 

正直講義のビデオ見ながら「なんでこんな頭悪いんやろ」ってめっちゃイライラしてるし。

 

うん。それが書きたかったことや。

 

とりあえず基礎の講義を一通り受けてしまって、その後対策練る。

 

おわり

 

 

作業興奮

最近、資格勉強について考え方が深まった点があるからその点について記しておく。

 

いわいる「勉強」、たとえば資格勉強が最たるものだけど、「答え」がある勉強について、この歳になって取り組むにあたって気が付いたことからまず書く。

 

それは、単純に反復がキツくなったということ。

 

赤シートで答えを隠したり、見たりするのの繰り返しとか考えるだけでぞっとする。

 

同じ問題を何回も解く、と言うのもなかなかきつくなったなと感じる。

そもそもそんなにできてないけど。

した方が良いんだろうけど。一般的には。

 

で、そうは言っても問題、とくに計算系の問題は、講義を受けるごとに復習していかないと次の講義にすすんでいけない感があるので仕方なく問題を解いていた。

 

でも、それも苦痛だったので、最近はとりあえず解答を写してみている。

 

一回講義を聞いただけでは解法が浮かんでくるはずもなく、そして、そうして分からないまま悩むというプロセスを文字通り「反復」するなど地獄以外の何物でもないなと思ったのでこの方法を採用してみている。

 

感触は悪くない。

 

本当は、と言うより正攻法としては、自力で考えながら解き進めていくのが良いのだろうが、自力で考えてもどうにもならない感がすごいので乗り換えることにした。

 

高校受験、大学受験の時を思い返してみても、数学の分からない問題でいくら悩んでも仕方がなかった。

 

さらに解答を見ても、そこに載っている解説で納得できることはほぼ無かった。

 

それなら解答を書き写すことをどんどんしていけばよかったのだ。

 

今それをしている。

 

おわり

11時起き、2時就寝。

最近の生活リズムはこんなもんか。

 

資格受験生という身であって経済力が0だから、たまにそのことに思い至ってテンションがダダ下がりすることがある。

 

でもそれも最近は「まあいいか」と思えることが増えてきた。

 

2年遅れようが3年遅れようが、だから何だと思っている。

どうせいつか死ぬしな。

 

むしろこうして規定路線から離れればはなれるほどに、何か「普通」の生き方と違った生き方をしたいと思ったとき、それを実行しやすいなと思ったりする。

 

まあ、そこまでのヴァイタリティが今後生まれるかは怪しいけど。

 

また冒頭の話に戻るけど、この生活(11時起き、2時就寝)が一番自分にはしっくり来てる。

 

一生このままでいいのになとよく思う。

 

一生受験生のままいるのは、さすがにお金の問題があるからキツイ。

でもベーシックインカムとか導入されるなら、別にこの生活でもいいなあ。

 

まあベーシックインカムが導入されたらそもそも資格の勉強とかしなくていいか。

ラッキーや。

 

だんだん資格の勉強だけをしている生活に慣れてきたと言うことかなあ。

 

陳腐な言い方ではあるけど、物の捉え方次第ということだろうな。

 

同級生が働いてるとか、今後の進路が同だとかいろいろ考えて不安になるのも仕方のないことではあるけど、たまには自分が持っている物理的な自由(寝る時間を自分で決めていいとか何時に何を食べるとか。「精神的な自由」みたいな概念と対比させようとしてみた)に目を向けてみてはどうだ、なんて思ったり。

 

おわり

ニートが読むべき本:『働くことがイヤな人のための本』(新潮文庫)中島義道

 

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

 

 大学2回生くらいの時、一時期この作者の本をよく読んでいて、その時にこの本を読んだことがあったが、最近ふとまた読みたくなって読んだ(「最近」と言ってもそれは去年の話。卒論の関係で投稿がかなり遅れた)。

 

前に読んだ際にはメモなどは書き込まずに読んでおり、ページの端が少し折られているくらいだったけど、こんなにたくさん思うことがあるなら前回も何か知らのメモを残しておけば良かったと思った。

 

今回読んでみて、「なるほど」と思うところがたくさんあり、なんぜ前回読んだときにその箇所を素通りしたのかが不思議だった。今回は線を引いて、気が付いたことを書きこみながら読んだのだけど、たまに前回ページの端を折ってる箇所とかぶっていたりするのでけど、前回どういうことを考えてそのページを折っていたのかが非常に気になった。

 

今回読んでこれだけ感銘を受けたのに、以前読んだときは感想らしきことを一切ノートに残したりはしていない。それだけ「働く」ことをここ数年間考えていたということだろうか。

 

今回読んで印象に残っていることの一つに、中島氏がしきりに世の中の不条理さに言及していたことがある。

 

中島氏いわくこの社会で成功するのも落ちぶれるのもすべては運で、その運がどういう仕組みで僕たち人間に作用するのかは誰も分からない。

 

それなのに成功者は「諦めなければきっと夢はかなう」と言う。自分が成功したのは運のおかげなのに。

 

それでもそういう言葉が世の中に出回るのは、成功者にしか発言権がないから。

 

かといって、そうやって成功者を僻むのも違う。

 

自分が成功していないからといって、それが正しいことにはならない。

 

成功者が特別なにか不正義をはたらいたわけではない。

 

成功者、もしくは成功をめざして社会のなかであくせく動いている人を見て、そこで上を目指すことを悪く言うことはできない。

 

と、(僕の理解によると)中島氏はこの本の一部でこういうことを書いていた。

 

僕は中島氏が書いていることは概ね真実だと思う。

 

あくまで中島氏が見た社会だから、僕がその理解に対してどうこう言うのは本当はナンセンスかもしれないけど、僕の理解と概ね一致しているという意味でそれは「真実」だと思う(「自分の理解と合致していれば真実なのか!」とツッこまれそうだが、そのツッコミに対しては「イエス」と言おう。誰しも自分の理解と合致しているものを真実として受け入れているでしょ?)

 

人間には、自分でどうしようもないことが多すぎる。

 

どこに生まれるか・どんな遺伝子を受け継いで生まれるか、からいつ空腹になり、いつ眠たくなるかまで、人間には自分でどうしようもないことが多すぎる。

 

もっと言うと、自分でどうにかできると思っていることだって、本当は勝手に物事が進んでいることだってある(「決意」っていかにも自分で考えたみたいだけど、実は環境に期待されてるかもね)。

 

それで、そういう「自分ではどうしようもないこと」を「運」と呼ぶなら、社会での成功・不成功も、その大部分が運の作用と言えるだろう。

 

全てが運だと考えると、社会的な不成功を悔やむ必要はなくなる。

 

しかし、逆に社会的成功を素直に喜ぶこともできなくなる。

 

成功も失敗も、100%自分の努力によるものだと考えるのはおかしいと思う。

 

でも逆にそこにまったく各人の努力の要素が無いと考えるのも、多少おかしいとおもう。

 

というより、それだと何かを頑張ろうと思えなくなる。

 

今の僕はその「何かを頑張ろうと思えなく」なっている状態だ。

 

だからこそ「各人の努力」の領域を少しは残しておきたいと考えている。

 

そうしないと、完全な無気力人間になってしまうから。

 

無気力人間でもダメなわけじゃないけど、実際問題生きていけないからな~。

 

おわり

 

『世界から格差がなくならない本当の理由』(SB新書)池上彰

(この文章も2020年の11月頃に書いていたもの。途中まで書いて放置していた。

以下太字の部分は2020年11月に書いていた箇所)

 

kindle本。最近は、同じようにスマホをダラダラ見るにしても少しでも有意義なことをしようと思って、割と簡単に読めてかつ興味をもって読めるような本をkindleで買って読むようにしている。多分スマホ使用時間の5%くらいは本を読むことに使っている。

 

 

 

この本もその取り組みの一環として読んだ。

最初読み始めた時は、子ども向けの本なのかなと思った。

でも、しっかり考えなければいけない問題が分かりやすく書かれていたので読んで良かった。文字数が少なかったり、イラスト・写真が多いからと侮ってはいけないな。

 

僕が気になったのは「金持ちが独立し、富裕層だけの都市が続々誕生」という章だ。

アメリカのある都市では、富裕層が自分たちの税金を自分たち自身により多く還元することを目的として、新しい都市を作ることが起きているらしい。

彼らは、高い税金を払っているのにそれに見合った行政サービスが受けられていないとして、富裕層だけで独立し、質の高い行政サービスを実現した。

一方、富裕層が独立していった元の都市では、税収が減った。

と言うのがこの章の大まかな流れだ。

 

富裕層の独立に対して、僕は明確に反対するというわけではないのだが、どこか釈然としない。

 

たぶんそれは「自己責任」の考え方が富裕層に都合のいいように使われているからだ。

 

 

(以下2021年現在書いた箇所)

前回書いた箇所を見ると、過去の僕にはどこか「釈然としない」ところがあったらしい。

 

「自己責任」の考え方が富裕層に都合のいいように使われている、とある。

 

この時考えていたことを詳しくは思い出せないが、だいたい次のようなことを考えていた模様。

 

富裕層もそうして富を得るには、公共のインフラなり、市場なりを利用している。

 

そのインフラなり市場なりを回すために税金は使われている。

 

もっというと、彼ら富裕層が富を蓄えるには、数的に大多数を占めるであろう富裕層でない層が必要であったはずだ。

 

僕がおかしいと思うのは、富裕層は、富裕層でない層および公共のインフラ・市場を「利用して」お金儲けをしている(した)くせに、彼が税金を納める先は別が良いと主張しているからだ。

 

公共のインフラ・市場を使ってお金をもうけたのであれば、自分たちが使ったインフラ・市場が帰属する国なり地域に「お返し」として税金を払うのが筋であると思う。

 

この本を読んだ時点でこういった公共的な(?)考えは固まっていなかったが、この池上さんの本の後に読んだマイケルサンデルの『これからの正義の話をしよう』を通じて、こういう考えに至った。

 

 

 

世界から格差がなくならない理由を考えるために、本書『世界から格差がなくならない理由』を手に取ったが、また違う問題を考える機会になった。

 

それはそれでいいことだ。

 

おわり

文学部廃止論争について思うこと

(だいぶ前、多分2020年の暮れに書きだして途中で止まっていたので、とりあえず最後まで書き終えてアップすることにする)

 

以下、太文字の箇所が2020年の暮れに書いていた箇所↓

 

 少し前、「文学部廃止」という話がニュース番組で取り上げられていたことがある。

詳しいことは知らいなが、少子化と国の予算の削減(実際にそのような事実があるかは知らないけど多分ある)によって大学運営が困難になるなか、学生を集めにくい学部の筆頭である文学部を廃止にしてしまえという話なんだと理解した。

 

 文学部を廃止したいと思っているのは、大学と国の両方なのかな、というボンヤリとした理解しかできていない。

 

 大学が文学部を廃止しようと思う(別に全部の大学がそう思っているかは知らない。というよりもどれほどの大学がそう思っているのか知らない。多分そういう大学もあるだろうという話)のは、上にも書いたように、実学系の学部の方が学生を呼び込みやすいからだろう。

 

 工学部や法学部が「就職に有利!」みたいな宣伝文句を使いやすい一方で、文学部はそういった売り込み方をするのは難しいだろう。

 

 国が文学部を廃止、もしくはその数を減らしたい動機としては、予算をより「生産性の高い」場所へ使いたいというものが挙げられるだろう。

 

 工学部や医学部(特に生理学?)みたいな分野に予算を回した方が、将来的に国に還元されるものが多そう、というのはなんとなくわかる。

 

 そういった大学および国の方針に対して主に文系の先生方が「そんなことはない!文学部は必要だ!」といって噛みついたというのが、この「文学部廃止論争(僕が勝手にこう呼んでいるだけです)」だ。

 

 自分が何年も研究してきた分野が、国から「不必要」の烙印を押されるのはさぞつらいだろう。反発が起きて当然だ。

 

 彼らの抗議がどういったものだったのか、これもそんなに詳しく知らないのだが、だいたいが「文学部でしている研究にも『生産性』がある」みたいなものだったと思う。

 

 「生産性」という言葉は多分使っていなかった(文学部の先生方ということもあってもう少し難しい言い方をしていたかな)が、言いたいことは結局「工学部や法学部で研究していることと同じくらい文学部でも研究も社会の役に立っている」というものだったと記憶している。

 

 僕はこのニュースを見ていた当時は、文学部関係者の言い分ももっともだと思っていた。

 

「役に立つ」の射程を10〜20年という時間的に狭いものとして解釈するとすれば、もしくは産業分野にだけ限定するのであれば、文学部はもしかすると「役に立たない」学部なのかもしれない。

 

けれど、何百年スパンで、またその活用される範囲を人々の精神活動の領域にまでひろげると文学部で扱われている学問も何かしらの「役に立つ」と言えると思った。

 

だがしかし、最近はその考えを改めつつある。

 

(ここからは2/27(土)に書いている)

すごい所で書くのを止めてる。

 

フェルマーばりの寸止めである。

 

どう改めたのかを考えてみたが、イマイチこれと言った考えは浮かばなかった。

 

たぶん過去の自分もそこで何を書くのか迷ったから書くのをやめにしたのだろう。

 

2021年2月現在の僕は文学部の存続について、こうあるべきだみたいな意見は何も持っていないし、文学部の未来についての予想も立てられない。

 

なんでこの時はこんなことについて考えていたのか、今となっては不思議だ。

 

たぶん卒論に悩んでいたこともあって、大学教育について何か言いたくなったんだろう。

 

こういうことを書いていたという記録として残しておく。

 

またなんか考えが進んだら新しく書く。

 

おわり