ギリシア語初級を履修し、精神修行の時間にあてた話
今学期、半期だけギリシア語を履修した。
いろいろ思うことがあったので忘備録として書いておく。
まず、ギリシア語初級を履修した動機だけど、完全になんとなく。
2年前に1年間ラテン語を習ったときも完全になんとなく。
その時も毎週の小テストがしんどかった覚えがあるのに、今回も懲りずに古典語を履修。
今回は『イーリアス』とか『オデゥッセイア』など、高校世界史で習い名前だけは知っている作品を原語で読んでみたいな~とかちょっと思ってた。
まあ、実際にはギリシア語に打ちのめされて、古典作品を原語で読むどころか、教科書の練習問題すらも満足に解けなかったんだけど。
今期はコロナの影響で今対面授業がなく、3か月間zoomを使っての授業。
授業の前半30分ほどをかけて先生が教科書の説明をして下さり、残りの時間で解いてきた練習問題の発音の確認などをするという形式。
オンライン授業という慣れない形式のなか、先生はすごく丁寧な授業をしてくださった。
毎週、教科書の各章の最後についている練習問題を解いて提出するのだけど、先生は学生全員分の課題の答え合わせをして返却してくださった。
それくらい丁寧に授業をしてくださったのにも関わらず、冒頭で書いたように僕は練習問題を解くのにも非常に苦労する状態から抜け出すことができなかった。
毎週10問ほどの和訳問題が課題として出されていたけど、僕はその課題に、少なく見積もっても5時間かそれ以上かかっていた。
単純計算で、1問30分以上。
使っていた教科書はこの教科書
その和訳問題は例えば日本語に直した時に「詩人たちはムーサに仕える」になるような文章で、英語でいえばたぶん中学生の教科書レベルだと思う。
難易度はある程度文法・単語が分かる人からしたらそんなに高くないんだろうし、1問の長さも上に書いたように長くないものがほとんどだ。
僕はこれらギリシア語の文章と毎週格闘したけど、結構つらかった。
何がつらいって、単語の意味が分からない時に延々と教科書内をさまようことになること。
大抵は練習問題の後ろに初出の単語の意味は載っているのだけど、2回目以降その単語が登場するときには意味は載っていない。
だから、各練習問題の後ろの単語の意味を求めてウロウロすることにえらく時間を取られた。
次に、名詞・動詞・定冠詞などの変化の規則が最後まで頭に入ってこなかった。
ギリシア語、ラテン語などの古典語に限らず語学学習には語の変化を覚える作業が伴うのが普通だ。
ギリシア語は名詞・動詞・形容詞が格(日本語でいう「~は」「~の」など)、性、数に対応して変化していく。ラテン語と一緒だ。
先生はこの変化の仕方を丁寧に教えてくださったのに、僕はいつもの悪い癖であとで覚えようとしてしまった。
結局、動詞や名詞があるごとにそれらしき単語が載っている変化表に戻って、その単語が何格なのか(訳すときにはこれが重要)を推測する作業に追われた。
変化表と変化の仕方の原則みたいなものが頭に入ってないから、どれだけその作業をしても頭に残るものはなく、ただただ形態が似ている単語を識別する、という人工知能の画像認識のような事になってしまった。
新しいことを始めた時の自分の悪い癖として、「適当にやっているうちになんとなくコツつかめてくるか」と安易に思ってしまうことがある。
これを僕は「演繹的ではなく帰納的に学ぶ」状態だと呼んでいる。
アバウトな説明をすると何かをするときにその対象の法則性に常に気を配る姿勢が「演繹的」な学習姿勢で、法則性にそこまで意識的にならないのが「帰納的」な学習の姿勢と言える。
演繹的な姿勢を持っている人は何かをするときに自然と仮説を立てて実際のデータからその仮説を検証している。
逆に帰納的な姿勢で向かう人は、割と行き当たりばったりと言うか、いい結果が出れば「やったー」ってなるし、悪かったらなんとなく落ち込む。
そしてその原因と対策を考えず次の問題に当たって、運が良ければ解けるし運が悪ければ解けないを繰り返す。
まあ帰納的な姿勢は一見悪いことばかりみたいだけど「自分のことを客観的に見て、自分と向き合うことを避けられる」というメリットがある(笑)。
だから僕はここまで帰納的な姿勢を崩さなかったし、また痛い目にあった。
語の変化の規則はもちろん「法則性」「原則」に当てはまるもので、演繹的な姿勢を持つ人なら当然見逃さない項目だろう。
その一週間が大変だったとしても、動詞の変化を教えてもらった週は集中してその変化を覚えきってしまっているだろう。
演繹的な姿勢を持っていう人というのは、法則・原則・規則を出来るだけ早くしっかりと抑えてしまうことが後々自分を自由にするということをしっかりと認識しているのだろう。
行き当たりばったりで勉強していた僕は、いつか勝手に変化表も頭に入っていることだろうと高をくくっていたけど、最後までその知識が定着することはなかった。
いろいろ考えた半期であった。
おわり