ノンストレスでできることなどないのかもしれないし、それでいいのかもしれない。
最近またまた天才的なひらめきをした。
「ノンストレスでできることなどないのかもしれないし、それでいいのかもしれない」ということに気が付いてしまった。
このひらめきは現代人を生きづらさから解放する可能性を秘めている、と僕は思っている。
まず、僕たちは何かにつけて「ストレス」があることを嫌い避ける。
会社の飲み会は上司の愚痴を聞くのが嫌だ。
友達を遊ぶのは楽しいけど意見の衝突は避けたい。
旅行して知らない土地に行きたいが、そこで迷って時間を無駄にするのは嫌だ。
などなど、僕たちはストレスのかかることを嫌い、できるだけストレスのかからない生活を日々追い求めている。
その結果として、なるべく人と接触しないで済んだり移動しないで済むような便利なシステムが生まれた。
Ubereats、Net Flix、YouTube、Twitter、Amazonの配達便などのシステムが人々のストレスを軽減していることは確かだろう。
これまでもストレスを減らすためのシステムは作られてきたし、これからもその流れは続いていくだろう。
では、世の中に便利なシステムとアイテムが溢れるようになって僕たちは以前よりもストレスフリーに近づいただろうか。
ここに僕の気づきの出発点がある。
もちろんUber Eatsで食べ物を注文できるようになったことで、家の外にいちいち出て行って、飲食店にはいり、店員さんに注文し、帰る前にお金を払い、また家まで帰ってくるというがない分、ストレスを感じる可能性は低くなっているように見える。
でも、食事を配達してもらって家で食べているからと言ってストレスフリーかと言うとそうではないだろう。
ごはんが配達されてくるのを待っている間に、ふとTwitter・インスタグラムを覗くとそこではリア充やモデル・芸能人の人たちがキラキラした日常を自慢げに披露しているかもしれないし、テレビをつけても同じような光景が待っていることだろう。
他の娯楽で時間を潰すにしても人との接触のない遊びは何処となく味気ないものに感じられるかもしれないし、電話する相手を探そうにも常時電話できる相手なんていないだろう。
ともすると、どうやって時間を潰そうか考えることにすら僕たちはストレスを感じるかもしれない。
「ストレスを感じないための仕組みをうまく使いこなせない事からくるストレスを感じる」という何とも本末転倒な状況にある人も多いことだろう。
そして、もっと言うとどれだけ科学技術が発展していっても人間からストレスを完全に取り除くことはできない。
よくある思考実験のように、脳に電極を刺して快楽を貪れる状態が永遠に続くならある意味日常的に使われる意味でのストレスはなくなるのかもしれない。
でも、ストレスを「欲求不満」と解するなら、人間はストレスから解放されないだろう。
脳に電極を刺して快楽を貪り続ける自分を反省的に見てしまった瞬間、自分は何をしているんだと思う人は少なからずいるはずだ。
きっとその人は自分の生きている意味を問うだろう。
この世に生を受けたは良いものの、快楽を貪るだけの存在と化している自分を顧みて
その人はもしかすると現代人よりもより強い「ストレス」を感じるかもしれない。
このようにどれだけストレスを排除しようとしても人間にストレスはつきものだ。
ストレスを欲求不満と言い変えてもいい。
僕はこの事実をどうしても受け入れられなかったけど、もうそろそろ受け入れたい。
何故なら、そのことを受け入れて生きていくしか道はないから。
「人間にストレスはつきものだ」みたいな命題をどうしても受け入れたくない僕みたいな人が共通して持っているだろう価値観に、ストレスのある生活はストレスが全くない生活よりも悪いというものがあると思う。
僕はこの価値観を自明のものとして生きてきた。
そして、よりストレスの少ない生活を希求し、ストレスが0になることは無いという事実にいつも絶望し、それを受け入れないまま生きていく道を探していた。
この考えについて最近思うこととしては、「ストレスが0の生活」が何なのかを自分でもわからないまま、それを探している気になっていたなあというものがある。
何かを「探し」「求める」時、その対象がある程度何なのかを掴めていないとそれを探し続ける事はできない、ということに気が付いた。
「W杯で優勝する」という目標は到底達成できないほどに困難で、もはや目標として機能しないほどに遠い目標と言っていい。
だがこの目標が目標たり得るのは、あくまで「W杯で優勝する」ことが何を意味しているのかを人間に認識できるから、という点に存する。
つまりどれだけ達成困難に見える目標でも、その目標が意味しているところが具体的にイメージできるならそれは目標として機能し得る。
その点において「全くストレスのない生活」を僕は具体的にイメージすることができていない。
どれだけお金持ちになっても、美人と付き合っても、ノーベル賞を受賞しても、僕の中からストレス・欲求不満は完全に消え失せるということはなさそうだ。
つまり「ストレス0の生活」は現時点では少なくとも僕にとっては想像不可能なものだった。
思うにこの「ストレス0の生活」を想像することはどの人にとっても不可能だろう。
人間という存在を構成しているもののうちに、ストレスであったり欲求不満があると思うからだ。
人間が言語を使って思惟する以上欲求不満からは逃れられないというのがこの直観の底にはあるのだけど、それはまた次の機会に書く。
ここまでで、「ストレス0の生活」など存在しないであろうことを見てきたが、僕はそれを受け入れていきたい。
さっきも書いた通り、積極的に受け入れるというよりは世界がそうなっているから仕方なく、というのに近いが。
いずれにせよマインドとしてはこれで多少は「前向き」と言われるものに近づいていくだろう。
おわり