『ツイッター哲学 別のしかたで』 千葉雅也 河出文庫
たまたまTSUTAYAに行き、たまたま手に取り少し読み面白かったので購入。
家に帰ってからその日の内に読み切ってしまった。面白い。
この本は著者の千葉雅也氏のツイートを、自身で章ごとに並べたものだ。
サーっと読めてしまうけど、短時間で読んでしまうんがもったいないような内容だった。もっと吟味して読みたいような。でも元がツイートだけあって、さっと読んでしまうという贅沢な悩み。
率直な感想としては、分かりそうで分からない微妙なラインのツイートが多かった印象。でも、単に意味が分からないというよりは、「なんとなく分かりそうだけど、もっと深い含意がありそうだな」というタイプの分からなさ。
「これ意味分からん!もういいわ!」となる悪い方の意味の分からなさでなくて「もっと深く知れたらもっと楽しめるのに」という良い方の分からなさ。
ここでは印象に残っているツイート、真意はつかめていないがなぜか引っかかっているツイートをいくつか紹介しておく(太字箇所が引用箇所)。
・「すぐ分解」p.73
困ったこと、気乗りしないことは対処可能な細かいアクションにすぐ分解すること。
これは言い古された格言だけど、何度自分に言い聞かせても足りないくらいの金言だ。大学教授という職業、それも哲学者となると、常人には思いもつかないような仕事のスタイルを持っているのかと考えたりするが、こういったいわば「基礎」を大切にされているという所に親近感が湧いた。
・「遅延の劇」p.85
プロレスとは、男同士のセックスを回避し続ける遅延の劇に他ならない。
この本の中で一番印象に残っていると言っても過言でないツイート。
全体としてはなんとなくニュアンスは分かりそうなんだけど、よく意味を考えてみると良く分からない。
まず「男同士のセックス」と言うところに大きな疑問符ならびにエクスクラメーションマークが付いた。「遅延」ということは、その行為がゆくゆく行われることはもうすでに決まっているということだ。それは何を意味する?
そして、なぜその欲望が満たされることを「遅延」する必要があるのか気になった。
プロレスをそういった視点から見ることが可能ということ自体も驚きだった。
・「男たちよ」p.179
誰かの美しさに魅了され恋さえしているときに君、男たちよ、自分自身の美しさをはっきり認識することの奇妙な恐ろしさから、他人に恋することで逃れようとしているのではないかと考えてみたまえ、そう、自分自身こそ法外に美しいのかもしれないのだ。
僕は男であり、「自分自身の美しさをはっきり認識」したことは無い。
「男」という言葉、もしくはその概念には、「汗臭さ」とか「泥臭さ」とかもしくは性的な営みにおける精神的な「汚れ」などのある種の汚さ、「反ー美しさ」のイメージが付いて回りがちだ。そして僕も自分自身に対してそのようなイメージを多少なりとも抱いていた。だからこそ、このツイートにはハッとさせられた。
このツイートの「美しさ」は身体的な意味でも取れるし、精神的な意味でも取れるだろう。僕は最初、この「美しさ」を身体的な意味で理解した。
多分それも間違いではなくて、女性の身体の美しさに強く惹かれること、翻って自身の「美しくなさ」を嘆くことなかれ、というメッセージでもあるのかもしれない。
でも、このツイートの「美しさ」は精神的なものとしても理解可能 だと思う。
僕の勝手な解釈だけど、自分が汚れていることを意識し、それゆえに美しいものを求め恋をするその心理作用自体に、ある種の純粋さ、無垢さ、言ってみれば美しさ、が備わっているのかもしれない。
あと、「自分自身の美しさをはっきり認識することの奇妙な恐ろしさ」というのがあまりピンとこなかった。自分が美しい存在であることは喜ばしいことだと思うが、自分自身が欲望の対象になってしまう(つまりナルシシズムということか)と、世界がそれ以上広がっていかないから「恐ろしい」のかもしれない。
・「死の欲動」p.179
スノボを観ると、人間は死のギリギリでなんとかコントロールし切るということに強烈な快感をもつのだなと改めて思う。フロイトの言う「死の欲動」(タナトゥス)というものは、自然科学的には根拠を調べようもないが、現実のいろんな現象においてどうやら働いているたしいと考えたほうが便利である。
※その後、危険なスポーツは、死に近づこうとしているのではなく、生の過剰な発露なのであり、結果的にたまたま死に至ることがあるだけだ、と思うようになった。
死と隣り合わせのスポーツやパフォーマンスを行う人は、「死のギリギリでなんとかコントロールし切る」ことに焦点を当てているのではなくて、あくまで「死」に近づくことに焦点を当てているのだと僕は思っている。まあ同じことなのかもしれないけど。
「死の欲動」と「生の発露」は一見真逆のベクトルを持っていそうだけど、実際その現れ方は瓜二つであることが多い、という事実は面白いと思う。
なぜ安全な形で「生の発露」ができないのか、これは深い部分で僕の悩みにつながっているのかもしれないと思った。