三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

「何があっても達成できることを毎日のタスクにしましょうね~」って難しくないですか?

 さっきランニングしながら思ったこと。

 

 よく、自己啓発系の人が「継続の極意」として、「一日の目標は、その日何があってもできるレベルのものにしよう」という類のことを言う。

 そして、その「その日何があってもできるレベルのもの」を毎日積み重ねていけば、自然と自信と実力が積み上がりますと。

 

 僕にはその「その日何があってもできるレベルのもの」が無いな、とず~と思っている。

 そして、周りの人がそれぞれに「その日何があってもできるレベルのもの」を持てているのかと不思議に思うことがある。

 

 いつからこんなことを思い始めたのか定かではないけど、多分勉強関連のことで思い始めたんじゃないだろうか。

 たぶん、勉強法関連の本で、「一時に頑張りすぎるのは良くない。結局すぐに勉強量が減るから。それよりは、『何があってもできるレベルのもの』を毎日継続した方が良い」と書かれているのを見て、それを実践しようとした時からだろう。

 もしくは、足が速くなりたかった中学生当時、「毎日20mダッシュを3本でいいからやる」と決心し、ものの数日でやらなくなった時だろうか。

 

 他にも、僕が「何があってもできるレベルのもの」を見つけられないでいる例はある。ピアノの練習もなかなか毎日できないし、英語のニュースをYouTubeで5分でいいから聞き流そうと思ったけど、それも継続できなかった。

 ピアノにしても英語のニュースにしても、「何があってもできるレベルのもの」を自分なりに設定しているつもりだからショックが毎回大きい。

 

 最近で言うと、「はてなブログを毎日1文字でいいから書く」つもりでいた。これも1000文字書く日が続いたかと思うと、その次のは0文字みたいなのが何回かあって、結局最初の目標は意識すらしなくなった。

 

 こうしたことから、正直「毎日継続できること」が自分にはみつからないのでは?と思い始めてもいる(いや、別にそこまで意識的になってすらいなかったのだけど、今この文章を書きながらそんな気持ちになってきた)。

 

 「『毎日継続できること』が自分には見つからない」ことを認めることはつまり、「自分は物事を毎日継続できない」ことを認めることと等しい。

 なんか引っ掛かるけど、それも認めてしまった方がいいんだろうか。

 

 「負け癖」という言葉があるけど、物事を継続できないことを認めてしまうことで、それが癖になってしまう、みたいな危惧を(一丁前に)している。

 気にするとこ、めっちゃずれてるんやろうな。自分を客観視することの難しさよ。

 

 

 また話を蒸し返してみる。

 そもそも、僕は何も継続できていないのか。

 例えば、歯磨きとか、睡眠とか、何か食べるとかできている。

 それは、継続できていて当たり前なのか。

 

 うーん。この辺りが難しい。文章にする前は、この辺りを適当に流していた。と言うより、そもそもここまで意識が到達しなかった。

 

 別に厳密な話がしたいわけではない。どこからどこまでが継続か?とかどうでもいいっちゃどうでもいい。

 日常会話で「俺毎日歯磨き継続できてんねん」って言わない。だから、さすがに歯磨きとか睡眠とかは、継続している事の範疇には入れないでおこう。

 

 ここまで書いてきて、今回の僕の「裏テーマ」とでもいうべきものが分かった気がする。

 「薄々気が付いている自分の欠点を、『欠点』として認めてしまうことは果たしてその後その人にプラスに作用するか」を、本当は考えたいのかもしれない。

 

 巷では、「自分の欠点を客観的に見る」ことが正しいとされていて、僕もそれに異論はない。異論はないし、自分は自分の欠点を把握できていると思っていた。

 

 あー難しい。いろいろと難しい。

 ドツボにはまりそうで、そうなってしまうとこれまでと同じだからとりあえず一区切りにしておく。

 自分がほんとの所何を考えようとしてるのか少しでも明確になったからよかった。

 

おわり