三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

この世界はゼロサムゲームか。もしそうだとすると自分の幸せは他人の不幸か。①

大学入学以降ずっとこのトピックでモヤモヤしてきたので、一度腰を据えて考えてみることにします。

 

 

 ゼロサムゲーム(ゼロ和)とは

 まずはゼロサムゲーム(ゼロ和)の定義から。

ゼロサムゲームは、Wikipediaで調べたところ次のような定義になっていました。

 

ゼロ和(ゼロサムゲーム)複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。(Wikipediaより引用)

 

 つまりは、ある人の利益を+、ある人の損失を-と考えた時、それらの総計が0になる状況のことをゼロ和(以下ではゼロサムゲーム)と呼ぶようです。

 

 蛇足ですが、ゼロサムゲームはゼロ和(zero-sum)とも言うらしいです。

sum(総計)すればzero(ゼロ)になる、そのままです。

 

 Wikipediaにはゼロサムゲームの例として競馬・パチンコ・スロット・FXなどが挙げられていました。

 

 FXなどは分かりやすい例ではないでしょうか。

 儲かる人がいればその裏側には必ず損をしている人がいるということです(FXを取り締まっている会社は手数料を取れるのでその限りではないですが)。

 

何を考えていきたいか

 僕が今後考えていきたいのは、冒頭にも書いた通り「この世界はゼロサムゲームか」という問題についてです。

 

 この問題がどういう意味なのかについては、後々細かく定義していくつもりです。

もしかすると語の定義を明確にする段階で、そもそも問題の立て方がおかしかったことに気が付いたり、もっと面白い問題に変化していくかもしれません。

なぜこの問題を扱おうと思ったのか

 

 この問題を最初に考え出したのは大学生になってからだと思います。

 

 高校卒業まで部活や受験というはっきりと競争の形をとった制度の中で暮らしてきましたが、自分が「競争の中で暮らしている」ということを意識することはほとんどありませんでした。たぶん毎日の生活が忙しくて、いろいろと考える余裕が無かったからです。

 大学入学後は一転、いろいろと考える余裕ができて(しまって)将来についても考えるようになりました。その時にふと、「このあと会社に入ってそこでも延々と競争していくのか」と漠然と、しかし中学、高校時代よりはリアリティをもって考えました。

 

 「競争が嫌なら万年平社員でいればいいじゃないか。もしくは公務員にでもなればいいじゃないか」と言われそうです。そして実際僕は自分自身に対して何度もそのツッコミを入れました。

 

 たしかにその指摘は間違っていません。

 競争が嫌ならば、比較的競争の少ない公務員になるか、民間に入ったとしても、出世競争のレールから早々に外れればいいのです。

 ですが、もし仮に自分が公務員になったり、万年平社員として出世競争のレールから外れる(かつ窓際族としての地位は確立する)ことができたとしても、本質的には競争から逃れられたことにはならないと思いました。

 

 公務員として働くとした場合、自分の給料は税金で賄われることになります。そしてその税金は、もちろんホワイト企業に勤めているサラリーマンや、リッチな経営者により払われてもいますが、一方でブラック企業のお財布から出ている部分も少なからずあるはずです。

 そもそもなぜブラック企業が存在してしまうか、というところから考えると、それは無能経営者の手腕に帰せられる部分も少なからずあるものの、社会構造の必然が生んだという側面もあると思います。

 つまり、大企業の下請けなど、他方(この例でいうと大企業)が儲けを生むために、他方(この例でいうと下請け)が無理をせざるを得なくなっている状態は少なからずあるはずです。

 

 ブラック企業の従業員を置いておいたとしても、非正規雇用者から税金を取っているともいえる(ブラック企業かつ非正規雇用という例ももちろんありえます)。非正規雇用正規雇用に比して、賃金の面でも福祉の面でも低水準かつ不安定なのは言うまでもなく、一部の人たち(例えば主婦や好んでフリーターをしている人*1が自ら非正規雇用者になっているとしても、やはり、限られた正規雇用の席をその席数以上の人数で取り合っていると言えると思いました。

 

 

  話が長くなってしまいました。公務員の給料の話に戻ります。

 公務員になると、一見競争から離れられそうなのですが、今書いたように、彼らの給料は国民の労働から賄われていて、その当の労働の現場では競争が常に存在しています。

 そうすると、競争から離れることを目指して公務員になるというのは、見たくないものから目を背けているだけで、実体としては(間接的にではあれ)競争に深く関わっていると言えます。

 

 窓際族も実質的には同じことです。

 窓際族は、その会社の中でこそ低い地位として見られているかもしれないし本人もそう思っているかもしれませんが、その人がもし正社員だとするのなら、さっき言ったように、正規雇用のポストをその人が一つ占めていることになります。

 つまり、出世競争という意味においての競争には参加していないませんが、正規/非正規の「不可視の」競争には無意識的に参加しており、リストラなどされない限りにおいて、その人は図らずもその競争に勝ち続けている事になります。 

 

 今の話に出てきたように、現代社会に生きる人は無意識的に競争に参加していると言えるでしょう。

 上ではそれを「不可視の競争」に参加していると書きました。この、不可視であり、だからこそ無意識に人々が参加せざるを得ない競争が無数にある、というのが僕が大学1,2回の頃に持ったこの社会に対しての感覚です。

 

 「なぜこの問題(「この世界はゼロサムゲームか」)を考えるようになったのか」という理由を説明するために、ずいぶんと長くかかりました。

 僕は上に書いたような見方(端的にいうと、「社会はゼロサムゲームになっている」という見方)で社会を見ています。

 そして、そうして社会を見てはいますが、本心としてはそうではあってほしくないと思っています。つまり、ゼロサムゲームではなく、誰かの幸せが他の誰かの幸せであってほしいと思っています。

 「現状、そう(ゼロサムゲームに)なっているのかもしれないけれど、そうであってほしくない」という意識が僕にこの問題を考えさせているのかもしれません。

 

長くなってきたのでいったん終わります。

 

つづく

*1:「好んでフリーターをする」ことが本当にあり得るのか、ということ、つまり結局は「酸っぱい葡萄」なのではという話は置いておくとして