「私たちは生きる世界を選べないの」『天才感染症』デイヴィッド・ウォルトン(著)より
いや~、良い言葉だ。
先日、僕としては珍しくSF小説を読んだ。
その名も『天才感染症』。
「天才」という文字が目に入ると、「ちょっと立ち読みしてみるか」という性質で、今回もそのパターン。
この小説のあらすじはこんな感じ。
正体不明の菌が人々の知能を急激に向上させてしまうが、その菌に感染してしまった人は菌の繁栄を目指して行動し始めてしまう。
粗すぎるが、あながち間違ってはいないはずだ。
読み終えて1か月くらい経つが、内容面でそこまで印象に残っていることは無い。
最初の方はとても面白かった。
主人公がNSA(日本で言うところの「公安」)に入る辺りは、「NSAってカッコええな~~」って思って読んでいた。
中盤以降、菌との闘いが熾烈になって来る頃以降もまあまあ面白いけども、序盤ほど引き込まれなかった。
この本で印象に残っているのは、主人公の上司(同僚だったかも)がと放った
次の一言。
「私たちは生きる世界を選べないの」
このセリフが発せられたのは、敵(=菌)が猛威を振るい、「人類がヤバイ!」となり、主人公がパニックになってしまった場面だ。
せっかくなので台詞(地の分少し)を全部載せておく。
ちなみに「メロディ」というのは、主人公の上司の名前である。
「私たちは生きる世界を選べないの」メロディが疲れた声でゆっくりと言う。「正直なところ、わたしが生きてきた世界は、これまでだっていいときなんてほとんど無かったわよ。この菌は人間の心のもろい部分を解法してしまった。一度壺からでた魔人はもう戻せないの。間違いなく利用されるし、悪い目的のために使われるでしょうね。でもわたしには世界の問題すべてを解決する力なんてない。自分の家族の問題でさえ、大方は解決できないのよ?わたしにできるのは、限られた知識と手の内にある道具を駆使して全力を尽くすことくらいだわ」
デイヴィッド・ウォルトン『天才感染症(下)』 邦訳pp. 165~6
僕がこの「私たちは生きる世界を選べないの」という言葉が気に入っているのは、人間の絶望をごくシンプルに凝縮しているからだ。
それともう一つ、この言葉には絶望が詰め込まれているが、それと同時に、どこか前を向いていこうという気にさせる所があるからだ。
「壺からでた魔人」や「間違いなく利用される」云々については実際に小説を読んでもらうとして、ここでメロディが言っていることは、現実世界にも十分当てはまる。
紛争・差別のような分かりきった不幸・災難を持ち出すまでもなく、”平和”とされている日本での平凡な日常生活においてだって、起きないに越したことはないことなど山ほどある。
受験に失敗して意気消沈するかもしれないし、会社でリストラに遭うかもしれないし、容姿でいじめにあうかもしれないし、一生「失われた」時代を生きることになるかもしれない。
そういう災難があった時、人は「自分がこの世界を選んだわけじゃないのに~~!」って思うだろう(僕はたまに思う)。
僕はもともと「自分がこの世界を選んだわけじゃない」みたいに上手いこと言語化できていたわけではなくて、この小説の上に書いたセリフを読んだときにはじめて「これや!」ってなった。そして、僕が日ごろ抱いていたモヤモヤのほぼすべてが「私たちは生きる世界を選べないの」という台詞に凝縮されていることにも気づいた。
この「私たちは生きる世界を選べないの」の後に「でもわたしには世界の問題すべてを解決する力なんてない。自分の家族の問題でさえ、大方は解決できないのよ?わたしにできるのは、限られた知識と手の内にある道具を駆使して全力を尽くすことくらいだわ」と続くのが僕的には気に入っている。
「自分で選んだわけではないよ、どういう世界・社会・国・家庭に生まれてくるか、なんて」
「それはそうなんだけど、やれることやっていこうぜ」
こういうメッセージを僕は受け取った。
いや、まあ、誰が読んでもこれに近いメッセージを読み取るのだろうけど、僕は特に刺さった。
「こんな世界を選んだのは自分じゃない」といつまでも考えていても何も良くはならない。一生何も変化しない。
それなら何十年かかってもいいから、少しでも自分が「良い」と思える方向に進んでいった方がいい。そんな風に少し思えた。
おわり
p.s. 2021.7.6
上の文章を書いたのが2021.6.24あたり。
現在2021.7.6。前回文章を書いたときの自分は随分ポジティブだったなと感じる。
日常生活を送りながら、上に写した小説の一説を時々反芻してみるが、ここ数日は「どこかやはり綺麗ごとなのでは?」という考えに傾きがちだ。
この世界があんまり良くない場所であることの例として、僕は上の文章で紛争・差別・受験の失敗・リストラ等を挙げた。
その文章を書いているときはその例も適切だと思っていた。
その例「も」と書いたのは、紛争・差別などの例は適切なのだけど、その例だけでは言い尽くせていないものが他にまだ(まだ)ある気がすでにしていたから。
で、その「言い尽くせていないもの」ってなんなのかな~って最近考えて、出てきた例は、例えば「人はいつか死んでしまう」こととか「人と人は究極的に分かり合えない」ことだなどだった。
あと、「結局自分の幸せは誰かの不幸になる(もしくは自分がそう思い込んでしまう)こと」も外せない。
この3つの例は、いわば普遍的な問題だと思う。少なくとも僕はそう思う。
紛争も差別も普遍的ではないのか、という人がいるかもしれない。
難しい所だと思う。
でも僕は人がいずれ死ぬことに比べれば、この世界から紛争・差別が存在することは必然的ではない気がしている。
「人がいずれ死ぬ」のも、経験的に蓋然性が高いという話ではあるので、人がいずれ死ぬことに比べて、この世界から紛争・差別が存在することの必然性の程度は低いとでも言っておこうか。
「結局自分の幸せは誰かの不幸になる」はどいうこと。
受け取り方によっては、すごく主観的なことを言っているように聞こえる。
僕がこの言葉で意図しているのは、別に人に限った話ではなくて、生きとし生けるものの、この世界内での闘争について回る悲しさだ。
もうほんと、まったく善人になりたいとかは思わない(いや、ちょっとは思うよ)けど、やっぱり、理想は誰も「泣かない」ような世界だと思う。
人間社会は権力の無い人が、動物界では力の弱いものが(環境に適応できないものが)ツライ目に遭うわけで。
僕は、自分自身がツライ目に遭うのも嫌だけど、この世界の構造上誰か(人に限らず)はそういう目に遭わざるを得ない、というのも同じくらい(さすがに自分が可愛いので「同じ」とは言い切れない)嫌だ。本当に理想論だ。
こう考えると、「結局自分の幸せは誰かの不幸になる」というのが、紛争・差別よりも必然性の程度が高いという主張も、それなりに頷けるのではなかろうか。
そして、ここで挙げた「人はいずれ死ぬ」とか「人と人とは究極的には分かり合えない」とか「自分の幸せは誰かの不幸」とかは、「まあ、仕方ないよね」という話であることも、なんとなくわかっている。
最後に僕の言いたいことをまとめる。
パターンA
100個の大きな問題があります。
その100個の問題は何千年かかるか分からないけど解決不能ではありません。
そんな世界に僕たちは生まれました。
誰かが言いました「私たちは生きる世界を選べないの」と。
それを聞いた人々は言いました「確かに何千年かかるか分からないけど、地道にできることをしていこう」と。
パターンB
100個の大きな問題とそれとは別の5つの問題があります。
100個の大きな問題は何千年かかるか分けらないけど解決不能ではありません。
ですが、別の5つの問題は解決不能のようです。
そんな世界に僕たちは生まれました。
誰かが言いました「私たちは生きる世界を選べないの」と。
それを聞いた人々は言いました「そうだね。何を目指して生きていけばいいのだろうね」と。
おわり