変えられるもの、変えられないもの

下の文章のおおもとは4.5か月くらい前(つまり2021年8月あたり)に書いていたもの。

今(2021年12月)読んでみて、少しだけ手直しして公開する。

中途半端な文章のまま「下書き」ボックスに入っているものが多く、それを削除してしまうのももったいないし、かといって放置し続けるのもなんなので。

また言い訳めいたことを書いてしまっている。

 

(以外、2021.Aug頃に書いていたもの)

日々、「頑張らなくては」と思うことが多い。

特に、大学に入学して以降の5年間、強迫観念的にに僕にこの考えがまとわりついてきた。

でも強迫観念がいて回る割には、満足のいく成果が上がってない。

そこで僕はなんで成果が上がっていないのかを考えてみることにした(僕の求めている成果が大きすぎるっていうのはある。"一般的な”価値観からすると誇大妄想と言われてもおかしくないレベルの目標をたてがちなので)。

 

それで気が付いた。

自分が一体何を頑張ってきたのかを自分ですら把握できていないことを。

 

「どう頑張るか」を考える前の話だ。方法論を考える前に、何を頑張るかのかがそもそも明確になっていなかった。まあ、なんとなく生きていたのだな。

じゃあ、今後は頑張る対象を明確にしようと思った。

 

そうすると、次は一体何を頑張るんだってなって、自分はどの分野の何なら頑張れるかなと考えたけど、そもそも「頑張れる」対象って「変えられるもの」だなということに気が付いた。

 

だってそうだろう。

絶対に変えられないことに注力しても何も成果は上がらない。端的にゼロだ。

「変えられないことに注力しても成果は上がらない」は言葉にしてみるとその疑いようのなさが分かるけど、実際僕は変えられないものに注力していて可能性がある。否定はできない。

 

だから何を頑張るのかを考える前に、何なら「頑張れる」のかを考えるべきであること。好き嫌い・モチベーションの話以前に、原理的に「頑張ることが可能なこと」は何なのかを整理すべきだと僕は思った。

 

まず、世の中を見回すと「変えられるもの」の方が多そうなことに気が付く。

スマホの設定を変えることができるし、電気をつけて部屋の明るさを変えることができるし、整形すれば顔を変えることができる。

学歴を変えたければ今何歳であっても、入学条件さえ満たせば望む学校に入学し学歴を変えることができる。自分の身体がある場所を物理的に変化させたいのであれば宇宙空間にだって移動させることもできる。

最後2つは実現するのは難しいかもしれないけど、別に無理ではない。

 

こんな風に世の中には、パッと見では「変えられる」ものの方が圧倒的に多い。

とすると、「変えられるもの」が何であるのかを考えるためには少数であろう「変えられないもの」を挙げて、それ以外が「変えられるもの」とするのがいいみたいだ。

 

ではでは、「変えられないもの」とは何か。

僕は過去自己同一性だけは変えられないのではと考えている。

両者は厳密に言えば同じこととも言えるかもしれない(「過去」に「自己同一性」も含まれるかもしれない)けど、そこは後々触れたい。

 

まず、過去が変えられないものであることについて。

まあ、これに異論はないだろう。

「西暦××年にAさんに告白して振られた」という歴史的事実は、この世界に"客観的に”(ここにツッコまないで)存在している。

もしその何年か後にAさんに再アタックしてその恋が成就したとしても「振られた」という歴史的事実が変化するわけではない。

 

鎌倉幕府の成立が1192年と教科書に書かれていようが、1185年と書かれていようが、真の歴史的事実は「いつも一つ」ということ。

 

次の自己同一性とは、ここでは「そのものの成り立ち」と同じような意味で用いている。

 

今ここに、外見では一切区別できないティッシュの箱が2つあるとする。

その時僕たちはふつう同じティッシュの箱が2つあると考える。

でも、「そのものの成り立ち」という観点でいうとその2つは明確に分けることが可能だ。

片方の箱は中国で作られ、片方はベトナムで作られた後に僕たちの目の前に持ってこられれたとしよう。

その仮定のもとでは、両者は「どこで作られたのか」という属性によって区別ができる。

 

仮に二つの箱が同じく、中国のある工場の、ある製造ラインで、同じ日に、同じ材料から作られていたとしても厳密には両者は区別可能だ。

片方の作られた時点は、もう片方の作られてた時点よりも微妙にずれているはずだし、両者が作られてから僕たちの目の前に届けられるまで、そして現に今もこの世界の中で占めている座標軸は同じではありえないからだ。

 

同じ時点(瞬間)に世界の中の同じ座標軸を占める物体が存在しない(僕は考えるのでその線で話をする)以上、この世のあらゆる二つ以上の物は、それぞれに固有の成り立ちを持った存在であると言える。

 

そして、僕が「自己同一性」を変えることができないというのは、端的にいうと「これまでの『成り立ち』を変更はできないし、これからもそれはできない」ということだ。

 

これから先の未来に、さっき登場したティッシュの箱が、世界のどの位置を占めていくのかは今現在では確定してはいない。

 

次に、「変えられることのできるもの」=「可変物」と「変えられないもの」=「非可変物」との境界を探しにいく。

 

ここで取り組む課題を定式化すると次のようになる

 

すなわち「すべてのモノ、存在者(=万物or世界)を『可変物』と『非可変物』に分ける境界線は何か?」となる。

 

では最初に、可変物の具体例から考える。

 

例えば、身長。

 

今日と昨日では、身長はごくごくわずかであっても変わっているはずだ。

 

次に、テストの点数。

 

過去のテストの点数は変えられないけど、これから受ける点数は「変えられる」。

 

厳密に言うと、まだ存在していない将来のテストの点数を「変える」とは言えない。

これは難しい点だ。

 

例えばAさんは第1回のTOEICの点数が500点だったとして、第2回のTOEICが600点だったとする。

 

この時、AさんのTOEICの第1回目の点数は金輪際500点だ。

でも「Aさんが獲得したTOEICの点数の最高点」は、Aさんが第2回のTOEICの点数が600点を獲得した時点で更新された。

 

一つのモノについてどの側面から切り取るかによって変わるか変わらないか両方あるようでも、適宜言葉を補ってやれば一意に定まる。

 

逆に、変わる変わらないが一つに定まらない時は、さらに分析可能であるともいえる。

 

例えば「日本」。

 

「日本を変えたい」というスローガンがあるくらいだから日本は可変物か。

でも、世界史の中の「日本」が毎回違う対象を指していたら困る。

 

個々では次のように理解してはどうか。

 

「日本を変えたい」という時そこで意味されているのは、「日本の政治・労働環境・経済を変えたい」ということだ。

 

世界史の教科書に登場する「日本」は逆に概念としての「日本」。

抽象的な存在、理念としての存在だからこれは変わりようがない。

人口が100人になろうとも、独裁国家になろうとも、島国でなくなっても「日本」は「日本」のまま。

 

↑ここまでが2021.Aug頃に書いていた文章。

 

最初の方は面白く読めたけど、「『可変物』と『非可変物』の『境界線』を探る」というのが、日常生活の中でどんな意味があるのかな分からんな、というのが率直な感想。

 

「身長」は「可変である」と言ったときに、そう言うことがあまり意味の無いものに映るのは、「身長」は自分の意思で変化させられるものではないからだろう。

 

逆に上の例で言えば「TOEICの点数」が「可変である」というのは、日常的な意味でも十分意味がある。

 

「日本」が可変かどうかの話については、本旨とズレてるかなと思ったけど、抽象的な名詞(ここでいうと「日本」)が指す対象が何なのかを、実はハッキリさせないまま語ってしまっていることがあるかも(だから気をつけよう)という自分への戒めとしては意味があったかも。

 

「過去」と「自己同一性」は変化させられない、という主張は、ある程度正しいものとしていいように思った。

 

上でも書いているように、この2つを合わせて「過去」と考えてもいいかな。

 

この文章から引き出せることは、今自分がやろうとしていることが「変えられないもの(≒過去)を変えようとすること」になっていないかどうかを点検するべし、ということ。

 

うん、難しいわ。書くのは簡単やけど。

 

ちょっと、分かった風な感じにまとめようとしてしまっているな。

 

そもそも「過去」を「変えたい」と(切に)思ったことは(たぶん)ないし。無理って分かっているから。

 

でも、なんとなく「『過去に固執』している状態にあるんやろな〜今の自分」と思うことはあって。

 

この「過去に固執する」ことが「過去を変えたい」と思っていることと同じなのか、それとも「過去から何かしら教訓を引き出したい」と考えている状態なのかでは、話が変わってくるな、とは思っている。

 

まとまらない。

 

終わり