退屈 あと、退屈さとは関係無い話として、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ

下の文章は2021.1月5日に書いていたもの。

今も同じようなことを考えている。

 

(↓2021.1.5に書いた文章)

僕の人生を一言で表すならこれ(=「退屈」)だな。

 

今日はひどく憂鬱な一日だった。

人生になど何の意味も無い、という考えが何度もよぎる日。

 

人間いつかは死に、それまでその人が築き上げてきたものは、その人が死ぬ瞬間(少なくともその人にとって)無に帰す。

 

人は誰しもこの運命とともに生きているけど、皆どのようにやり過ごしているのだろうか。

 

人類が書物を書き残すようになってから数千年とか、もしかしたらもっと長いのかもしれないけど、読んでシックリくるような本に出会ったことが無い。別に本に限らず、しっくり来て「よし、頑張って生きていこう!」と思えた本やドラマや映画に出会えたことが無い。

 

「この一冊が私の人生を変えました」とはよく聞く宣伝文句だけど、その「変えました」の程度が本当に知りたい。

 

思うに、今僕が欲しているような「人生が無意味であることを確認させてくれる」類のコンテンツは、あまりにも発展性が無いために不人気なんだろう。

 

「人生って無意味ですよね」「ええそうですね」

 

この二言で終わってしまう。ともすると「そうやって確認することも無意味じゃねえんか馬鹿野郎!」とツッコミが入る。

 

そして、人生が無意味だと語ること(ここでは「人生無意味発言」としておこう)はたいていの場合「サムイ」ことだとされている。

これは、人生無意味発言に「発展性が無い」ことの結果だと僕は思う。要は「それを話して何になるの?そんなしょうもないこと考えてる間にバイトでもしたら?」ということ(他のバリエーションとしては「そんなしょうもないこと考えてる間に彼女作ったら?」がある)。

人生無意味発言が「サムイ」ことだと世間様が考えるのは至極まっとうなことだ。

僕自身ですら、その考えには87%くらいは同意する。

 

ただ残りの13%では、「そうは言っても事実は事実やろがい」と思っている。

だから、もし僕の目の前で人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う。

 

(以上2021.1.5の手記)

 

この後何が書きたかったのだろう。

 

最後の、「人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う」というのは、今も変わらない。

 

「虚しさ」を口にすると、すぐに「メンヘラやん」と言う人とはあまり近づきたいと思わない。

 

人が「浅い」か「深い」かを自分は普段あまり考えないけど、すぐに「メンヘラやん」と言う人には、かなり「浅さ」を感じる。

 

「メンヘラ」であること・「病んでる」ことを何か(マイナス方向に)特別なものとして見ており、自分がそういう状態にはなっていないこと(「メンヘラ」でないこと・「病んで」いないこと)をことさらにアピールする様がむしろ痛々しい。

 

こんなこと言っても仕方ないなぁ。

 

 あと、先日、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ。この文章のタイトルをもともと「退屈」にしていて、このままだと千原ジュニアさんの『14歳』が退屈だった、みたいに受け取られそうなので、「退屈さとは関係無い話として」とわざわざ書いた。

 

 実際、ジュニアさんの『14歳』は、退屈さとはほど遠い作品だった。「鬱屈としている」とか「ふさぎ込んでいる」とか「悶々としている」なんて形容が全て愚かに、どこまでも舌足らずに感じるような、読んでいてこちらが気持ち悪くなってしまうような緊張感のある作品だった。

 

 だから、「退屈」な作品ではなかった。もちろん。

 ただ、どうして今僕が、このタイトルの中にジュニアさんの作品を読んだことを入れているのかと言えば、何だろう。タイミング的にこの文章に入れるのが適当と思ったのはあるし、あとは、僕の感じている「退屈さ」と、合う、というか、勝手にこっちがシックリきているからだと思う。

 

 いろいろ話が変わってしまうけど(話も変わってしまうし、文体も、主語ももしかしたら変わってしまっているかもしれない。「僕」だったり「私」だったり。さすがに、「私」の方が適切?な気がしてきた)、それは、最近読んだ『ライティングの哲学』に多少影響されている所がある。

 

 別に、その本の中で雑に書くことが推奨されていたわけではないけれど、それでも、書けない事に苦しみ続けるよりかは、体裁に気を使いすぎることなく、思いを文章にしていってもいいのではないかな、なんて思ったりしている。

 

 私は、後になればもっと良い文章が書けたりするんじゃなかろうかと思って、文章を書くことをため®ってしまうことが多いので、「ぐちゃぐちゃだな」くらいでも、とにかく文章にしてみてもいいかもしれないな、なんて思っている。

 

 思えば昔から、自分の書いていることが論理的に正しいだろうかということを過剰に気にしていた。「だから」、「でも」「または」などの接続詞(でいいよな)でキチキチと文章をつなげていくことに対して苦手意識があり、でもそれは多分、論理的であることへの過度の執着心の結果だったのかもしれないとも思う。

 

 最近は、「とにかく言葉をつなげること」をしてみてもよいのでは、と思うようになってきいる。昔書いた文章に、こうして感想を書いて投稿しているのもその一環だろう。とにかく一旦吐き出してみてもいいのではないか、と。

 

 千原ジュニアさんの『14歳』について書いていたのだった。

 

 私には、ジュニアさんの14歳の頃のような、激しい「反抗期」と言うものは無かったように思う。否、中学、高校時分に無かっただけで、今24歳にして迎えているのかもしれない。

 

 だから、『14歳』を、14歳の私が読んでもあまりピンとこないというか、共感に似た感情は湧かなかっただろうと思う。今でも、この感情の動きを「共感」と呼んでいいのかはかなり怪しい(だって、私は彼のように部屋に鍵をかけて断続的に引きこもる、という経験を、それそのままの経験をしていないのだから)。けれど、14歳当時の自分が、このような本に見向きもしなかったであろうことを考えると、多少、この小説の主人公の気持ちが「分かる」ようになった、と言ってもいいとおもう。

 

 いや、「気持ちが分かる」かどうかなんてどうでもいいいことだな。大事なのは私がどう感じたか。それだけ。

 

 感じたことを出来るだけ素直に書くとするなら、小説の主人公(もう、ジュニアさんでいいか。同じことだろう)は運が良かったんだな、と思った。

 

 ジュニアさんは怒るだろうけど、私はジュニアさんのことを悪く言いたいわけでは全然ない。ただ、一定期間引きこもった後に、彼のように社会復帰どころか、芸能かいの第一線で活躍できる人もいれば、そのまま引きこもり続ける人もいる、と言う話。

 

 もちろんジュニアさんが常にギラギラと、「自分が闘うべき場所」を探し続けていた、切実に欲し続けていたから、「お兄ちゃん」の誘い及びそこから生まれたチャンスを無駄にしなかった、と言えると思う。つまり、彼がチャンスをうかがい続けていたことが、彼の成功のカギだったと言えるとは思う。

 

 全く彼の成功について何か言うつもりはない。ただただ、この世界はあるがままで、成功者もいれば「成功者とは呼ばれない人」もいる、という当たり前の事実を、強く感じている。

 

 いや、ほんと何が言いたいんだろうな。う~ん、でも、多分、主人公に対して、やっぱり私には羨ましさがあるのかな。それを「この世界はあるがままで」なんて言い方をしているのかな。でも自分は、14歳の時にそんなに深く考えることはしなかったしな。

 

 あと、なんだろう、彼にとっては、中学や高校は無機質な場所だったのだろうと思うし、その延長線上にある、大学や会社だって、もちろん彼にとっては無機質極まりない場所だったはずだ(大学はどっちかというと無機質ではないかもしれないけど、それだって、サークル活動とかバイトとか、大学生活が無機質でない印象を与えるだけであって、大学自体はまあ、無機質と言ってもいいのじゃないかな。少なくとも彼はそう思っていたろう)。

 

 その彼は、お笑いを見つけて、それ以降は、テレビの向こう側からこちらの無機質な世界を見るようになったと思うけど、それで彼は救われるのだろうか。

 

 「彼が救われる」というか、彼は、自分以外の人間が、テレビの前の無機質な世界で、生き続けることを、テレビの向こう側から見ていてどう感じるのだろう。

 

 自分は救われた、と感じるのだろうか。自分は自分が生きていく道、「闘うべき場所」を見つけた、という気持ちの中で生きていけるのだろうか。

 

 「闘うべき場所」を見つけられなかった、もしくは、見つけようともしなかった人間は、バカな人間なのだろうか。

 

 非難しているみたいな書きぶりになってしまっているかな。でも、私は多分知りたいだけだと思う。彼が「救われた」と感じるなら、私もそのような道を見つけたいから。

 

 まとまらないけど、なんとなく書きたかったことは書けた気がする。

 

おわり