制限、フレーム、枠(PDCA的生活・21世紀的苦悩からの解放)および森博嗣さんの本について(『読書の価値』、『勉強の価値」、『集中力はいらない』等) 、あと厄介な習癖について

以下は2021.7月頃に書いていたと思われる文章。

丁度、冨田和成さんの『鬼速PDCA』を手に取って見た時期。

 

(以外2021.7月頃の文章)

最近は、書いている内容が徐々に徐々に偏りつつある。

 

そしてその偏りを分析することによって、僕はずっと「『完全』から疎外された状態で如何に生きるか」というテーマで書いていたのだと気が付いた。

 

あらゆるメディアの存在によって、想像力だけたくましくなってしまった現代人のありふれた悩みだ。

 

でも、ありふれているからといって簡単に解決できるわけではない。

人それぞれに、その人固有の解決策があるはずだ。もし解決策があるとすれば。

 

僕の場合は、それが「PDCA」になるかもしれない。

あのPDCAだ。

 

(以上2021.7月頃の文章)

 

 自分にありがちな、前置きだけ書いて疲れたパターンだ。

 

 たぶん、この時もこの後何を書くか考えずにここまで書いてる。今もそうだけど。

 

 当時(だから丁度半年くらい前)、資格の試験を受け、それまでの勉強の仕方を反省するにつけ、自分の計画性の無さが目についた。

 

 というよりも、そもそも「反省」すら出来なかった。常に行き当たりばったりで勉強してきたので、そもそも反省する対象(どんなふうに勉強したか)を把握することすらできていなかった。

 

 それで、それまではずっとその効果に懐疑的だった「PDCA」を知ろうと言うことで上に挙げた本を買った。

 

 本を買って2週間くらいは、本に書いてあることに忠実に行動しよう、みたいに思ってたけど、自分の縛り方がキツかったせいか(本に書いてあるよりも緩くしたつもりがそれでも自分にはキツかったみたいだ)すぐに元の行き当たりばったり方式に戻った。

 

 何がダメなんだろな、とよく思う。

 

 何がどうなれば続くんやろう、と。

 

 「物事を継続する」とか聞くと、「継続するだけやん」って思っていたけど、まあ、難しい。

 

 なんだかなぁ。「やるだけ」なのができないのはつらいなぁ。

 

 そもそも、「やるだけ」にならないようにしようということで始めたシステムが継続できないという。

 

 モチベーションの無限後退

 

 勉強を続けるためにシステムを導入したら、次はシステムを継続するモチベーションが湧かない、という。

 

 こういうことだと思う。生きていく、というのは。最近ほんと、そう思う。

 

 論理で進んでいけるのはある一定の所までで、その先は「ジャンプ」する必要があるみたい。

 

 「次をすべきか」は論理的に決められることかもしれないけど、そもそも何かを始めようと思うとき、何かしらの「ジャンプ」が必要。

 

 やるべきことをするだけ、という話について、最近読んだ本の中に考える材料があった。

 

 2021年の12月頃から5~6冊ほど森博嗣さんの本を読んだ。森さんのベストセラーと言えば『すべてがFになる』だけど、自分はその小説は読んでいない。森さんの小説で読んだのは『喜嶋先生の静かな世界』のみ。

 

 他は評論?的なものばかり。『勉強の価値』とか『諦めの価値』とか『読書の価値』とか『科学的とはどういう意味か』とかとか。

 

 森さんは、工学部の助教授をしながら作家としても大成功をおさめられた人らしい。元助教授だけあって、話が論理的なように感じる。たぶん森さん自身が意識的にそういう書き方をされているのだと思うけど、ほとんど「危ない」ことを書かない。

 

 「危ない」というのは、コンプラ的に危ないという意味ではなくて、「論理的に飛躍している」という意味での危なさ。そこは大学の先生(特に理科系の先生ということもよりその傾向を加速させているのかな。そんなことを言ったら文型の先生方が怒りそうだ)だけあって、ツッコミを入れる隙がない。断定できないことをあえて(調子に乗って)断定する、ということがない。

 

 森さんは、願ったことが願ったとおりに実現していくことが楽しい、とか幸せだ、と書いている。私はその感覚が、森さんの本を読み始めた当初分からなかった。今でも「そういう人もいるのだなぁ」というくらいの理解にとどまっている。

 

 私はどちらかと言うと「棚ぼた」的な出来事に巡り会うことを幸せだ、と呼んでいた。そのラッキーさ、僥倖を噛み締めることが幸せなのかな〜とか。

 

 あえて、自分を下品に書いているかも。森さんの考えが高級というか、“進んだ“ものだろうと思うので、それとあえて対比してみたい、との考えから。

 

 安易な対比を持ち出すとすると、森さんは用意周到で、私は行き当たりばったりと言える。森さんと私の対比と言うよりは、森さんとその他大勢との対比と言ってもいいかもしれない。私は、まあ(悲しいかな)‘‘普通‘‘寄りの感性の持ち主だとは思うので。

 

 森さんの本、(小説の方は、森さんが人間として面白いから読んでいるという人も、小説自体が面白いから読んでいて作者にはそこまで興味がないという人もいると思う)少なくともエッセイ集が売れているのは、森さんのその用意周到さが、ある種、‘‘異常‘‘の域に達していて、その異常性に興味をそそられる人が多いからというのも大きな理由だと思う。

 

 いや、もちろん、「異常性」なんていう風に呼んでる人は他にいないだろうし、森さんから見れば私みたいな行き当たりばったりな人間が「異常」なのはわかっているけど、あえてそう書いている。それくらい私にとって、森さんのモノの考え方、および、その考え方に沿って生きていけていること、はインパクトのあるものだ、ということ(「インパクト」とかいう語をこんな風に適当に使うと森さんは「バカだな~」と思うんだろうな)。

 

 私にとって、森さんの「論理的飛躍の無さ」、「用意周到さ」、「計画通りに物事を遂行していくさま」は、すごく欲しているものである一方で、努力して身に着けたいものかと言われると怪しいもの、になる。

 

 自分が何者でもないただの人であるという事実を一旦脇に置いておく。そして、まあ、いわゆる「超優秀な人間」になるだけのポテンシャルがあったとする。

 

 つまり、地頭が良いとされている学校に通っているとか、家がお金持ちで、自分が望めばどの分野の教育でもたくさんのお金が使ってもらえる、とか。よくわからない。とにかく、「やればできるんだろうな」と周りから思われている、ということ。

 

 で、自分がその状況にあった時に、森さんみたく自分の夢に向かってコツコツと進んでいけるだろうか、と思ったときに、進んでいかなそうだなと思った。

 

 というか、正確には、進んでいきたくないと思いそうだと思った。

 

 つまり、ある目標があり、着実に歩んでいけばその目標に到達できる、と分かっていても、自分はそれができないし、したくないと思っている、ということ。

 

 こうして言葉にすると、かなりひねくれていると感じる。でも割とありふれたことでもあると思う。ダイエットとかはその典型で、摂取するカロリー以上に消費すれば必ず痩せる。でも実際ダイエットに失敗する人も多い。受験勉強も理屈は同じだろう。受験日までに教科書に書いてあることを理解すればよく、理解が足りないと思われる箇所は受験日までに潰しておけばいいので。

 

 理屈の上では、ダイエットも受験勉強も成功させる方法は分かる。けれども、実行できない。そういう人は多いと思う。私もその一人なのだろう。

 

 それで、巷では、「成功させるための方法」を実行‘‘できない‘‘ことが悩みだ、と言う人が多い。でも私は、それは違うのではと思っている。つまり、ダイエットができな語り、受験勉強に失敗したりするのは、「実行力」なるものが欠如しているというよりも、そもそも正しいと言われているダイエット法なり勉強法に則って痩せたり試験に合格するのが嫌なのだと思っている。

 

 それは、そもそも「痩せたくない」とか「志望校に受かりたくない」とはまた違う話だ。そもそも「痩せたくない」、「志望校に受かりたくない」と潜在的に思っていて、現に痩せられなかったり、志望校に落ちることは、実はそれほど不幸なことではないかもしれない。あとあと「痩せなくてよかった」、「落ちて良かった」と思う日が来るかもしれない(ありそうにもないけれど)。

 

 私が考えているのは、目標であるところのダイエット・志望校合格を、本心で達成したいとは思っているのに、それでもその過程でつまづいてしまうことってありますよね、ということであり、実は、その失敗というのは、「正しい」とされている方法論に対して、それこそ潜在意識(か顕在意識なのかは知らないけど)で反抗というか、抵抗しているからでは、ということ。

 

 森さんはそういう葛藤がなさそうでいいな~と思ったということ。

 で、いいのかな。

 

 何か、少し違う気もするな。「いいな~」とは思っていないか。単に不思議、というか、自分には無い感覚だな~とは思った。

 

 森さんの考え方が「生き易い」考え方だとかは絶対言わないけど(まあ、言っているに等しいかも)、自分の考え方って生きにくいよな、とは思う。世間で正しいとされている方法論はとりあえず実践しておいて、その後、一般論が通用しないレベルで、もっといろいろと頭を悩ませればいいとは思う。それが自分にとっては難しい。

 

 なんで最も効率的な方法を実践できないのだろう。

 

 森さんの言うように「今それをしなければ(すれば)、後々どうなるかが分かっていない」だけなのだろうか。今ドーナツを食べれば、明日今日以上に体を動かさないといけなくなる、とか、今日勉強サボれば合格が遠のく、とか。その未来予測が雑すぎるって話だけなのか。

 

 まあ、多分大方そうだと思う。未来予測の詰めが甘い。で、未来予測の詰めが甘くなるくらいその夢に対しての気持ちも大したことない、と言われても仕方ない。

 

 つまりは面倒くさがっている、甘えているということ。

 

 最初、この文章は、「自分の計画性の無さを矯正するためにPDCAについての本を買ったけど長続きしなかった」ことについて書いていた。その後、森博嗣さんの本を読む、自分は森さんのように計画通りに物事を進めることが苦手であり、もしかすると、それは自分の中にある「正しいとされているものに従いたくない」という気持ちが原因なのではないか、と言うところまできた。そして、それは単にいろいろと面倒くさがっている、または甘えているということなのだろう、というところまできた。

 

 こうして文章にして客体化してみると、読み返してみると、やはり自分は甘えている部分が大きいように思う。ただ、もう少し、単に「甘えているだけ」と切り捨ててしまわないで、自分の、この、一般的な価値観からすればどうしようもない性癖とでもいうようなものと付き合っていきたい。

 

おわり