完璧を目指したいでしょ、どうせやるなら
「完璧主義」とは、何だろうか。
僕は、イマイチこの概念が飲み込めていない。
多かれ少なかれ誰もが完璧主義じゃないのかな。
「完璧主義者」と言われている人だけが完璧を目指しているというような印象をこの言葉からは受ける。
話が初っ端から逸れてしまった。失礼した。
僕は世にいうところの「完璧主義」的マインドを持っていながら、結果が伴っていない自覚がある。別にそれで落ち込んでいるとか言うことはない(なくはないけど)し、そこが問題ではない。ただただ事実として結果が伴っていない。
そこで、結果が乖離してきてしまったときにどういう風に考えるべきなのかと最近よく考える。要はどうやって軌道修正するのかということ。
完璧主義と言ったときにどのレベルを想定するかは人それぞれだ。
「テニスを始めるからにはウィンブルドンに出ないとね!」「サッカーやるならW杯出場をめざしてなんぼ」「数学得意だし、フィールズ賞狙います」
こんな人は稀だろうけど、究極はこういう人だろう。
僕の場合は、もう少し程度が低い。せいぜい
「大学の課題でレポートを出すなら他の人とは違ったことを書いて、教授に『この子良く書けてるね~』って思わせたい」
とか
「学校のテストは~点以上取りたい」
とかその程度だ。それでもいろいろ自分に注文を付けてきたなと思う。
自分への要求が高くても、実際に結果がついてくれば問題はない。
それはそう。自分の中の理想と目の前の現実が食い違ってないのだから、何も変える必要がない。
問題は、マインドに対して結果がついてこない時に生じる。
これだけの結果が欲しいという想いに、結果がついてこないという状況は容易に想像できる。
解決策は簡単に言うと2つ。目標を下げるか、目標に見合うように努力の量・方向性を見直すか。
僕はこの二つの解決策のどちらもアリだと思っている。
良くないのは、マインドと結果が乖離している状態。
意識が高いのに結果がついてこないのも、意識が低いのになぜか結果だけ出ているのも両方ともあまりいい状態だとは思わない。
欲しいものが手に入らない状態も欲しくないものが手に入ってしまう状態もどちらもストレスフルだろう(もちろん後者はそこまで困らないかもしれないけれど)。
だから、目標を下げるにしても、努力の量・方向性を見直すにしてもどちらの道を選んでも自分の欲求しているレベルのものが手に入っている点は外すべきじゃないと思う。
自分の完璧主義的傾向とどう向き合っていくかは今後も考えたい。
おわり