制限、フレーム、枠(PDCA的生活・21世紀的苦悩からの解放)および森博嗣さんの本について(『読書の価値』、『勉強の価値」、『集中力はいらない』等) 、あと厄介な習癖について

以下は2021.7月頃に書いていたと思われる文章。

丁度、冨田和成さんの『鬼速PDCA』を手に取って見た時期。

 

(以外2021.7月頃の文章)

最近は、書いている内容が徐々に徐々に偏りつつある。

 

そしてその偏りを分析することによって、僕はずっと「『完全』から疎外された状態で如何に生きるか」というテーマで書いていたのだと気が付いた。

 

あらゆるメディアの存在によって、想像力だけたくましくなってしまった現代人のありふれた悩みだ。

 

でも、ありふれているからといって簡単に解決できるわけではない。

人それぞれに、その人固有の解決策があるはずだ。もし解決策があるとすれば。

 

僕の場合は、それが「PDCA」になるかもしれない。

あのPDCAだ。

 

(以上2021.7月頃の文章)

 

 自分にありがちな、前置きだけ書いて疲れたパターンだ。

 

 たぶん、この時もこの後何を書くか考えずにここまで書いてる。今もそうだけど。

 

 当時(だから丁度半年くらい前)、資格の試験を受け、それまでの勉強の仕方を反省するにつけ、自分の計画性の無さが目についた。

 

 というよりも、そもそも「反省」すら出来なかった。常に行き当たりばったりで勉強してきたので、そもそも反省する対象(どんなふうに勉強したか)を把握することすらできていなかった。

 

 それで、それまではずっとその効果に懐疑的だった「PDCA」を知ろうと言うことで上に挙げた本を買った。

 

 本を買って2週間くらいは、本に書いてあることに忠実に行動しよう、みたいに思ってたけど、自分の縛り方がキツかったせいか(本に書いてあるよりも緩くしたつもりがそれでも自分にはキツかったみたいだ)すぐに元の行き当たりばったり方式に戻った。

 

 何がダメなんだろな、とよく思う。

 

 何がどうなれば続くんやろう、と。

 

 「物事を継続する」とか聞くと、「継続するだけやん」って思っていたけど、まあ、難しい。

 

 なんだかなぁ。「やるだけ」なのができないのはつらいなぁ。

 

 そもそも、「やるだけ」にならないようにしようということで始めたシステムが継続できないという。

 

 モチベーションの無限後退

 

 勉強を続けるためにシステムを導入したら、次はシステムを継続するモチベーションが湧かない、という。

 

 こういうことだと思う。生きていく、というのは。最近ほんと、そう思う。

 

 論理で進んでいけるのはある一定の所までで、その先は「ジャンプ」する必要があるみたい。

 

 「次をすべきか」は論理的に決められることかもしれないけど、そもそも何かを始めようと思うとき、何かしらの「ジャンプ」が必要。

 

 やるべきことをするだけ、という話について、最近読んだ本の中に考える材料があった。

 

 2021年の12月頃から5~6冊ほど森博嗣さんの本を読んだ。森さんのベストセラーと言えば『すべてがFになる』だけど、自分はその小説は読んでいない。森さんの小説で読んだのは『喜嶋先生の静かな世界』のみ。

 

 他は評論?的なものばかり。『勉強の価値』とか『諦めの価値』とか『読書の価値』とか『科学的とはどういう意味か』とかとか。

 

 森さんは、工学部の助教授をしながら作家としても大成功をおさめられた人らしい。元助教授だけあって、話が論理的なように感じる。たぶん森さん自身が意識的にそういう書き方をされているのだと思うけど、ほとんど「危ない」ことを書かない。

 

 「危ない」というのは、コンプラ的に危ないという意味ではなくて、「論理的に飛躍している」という意味での危なさ。そこは大学の先生(特に理科系の先生ということもよりその傾向を加速させているのかな。そんなことを言ったら文型の先生方が怒りそうだ)だけあって、ツッコミを入れる隙がない。断定できないことをあえて(調子に乗って)断定する、ということがない。

 

 森さんは、願ったことが願ったとおりに実現していくことが楽しい、とか幸せだ、と書いている。私はその感覚が、森さんの本を読み始めた当初分からなかった。今でも「そういう人もいるのだなぁ」というくらいの理解にとどまっている。

 

 私はどちらかと言うと「棚ぼた」的な出来事に巡り会うことを幸せだ、と呼んでいた。そのラッキーさ、僥倖を噛み締めることが幸せなのかな〜とか。

 

 あえて、自分を下品に書いているかも。森さんの考えが高級というか、“進んだ“ものだろうと思うので、それとあえて対比してみたい、との考えから。

 

 安易な対比を持ち出すとすると、森さんは用意周到で、私は行き当たりばったりと言える。森さんと私の対比と言うよりは、森さんとその他大勢との対比と言ってもいいかもしれない。私は、まあ(悲しいかな)‘‘普通‘‘寄りの感性の持ち主だとは思うので。

 

 森さんの本、(小説の方は、森さんが人間として面白いから読んでいるという人も、小説自体が面白いから読んでいて作者にはそこまで興味がないという人もいると思う)少なくともエッセイ集が売れているのは、森さんのその用意周到さが、ある種、‘‘異常‘‘の域に達していて、その異常性に興味をそそられる人が多いからというのも大きな理由だと思う。

 

 いや、もちろん、「異常性」なんていう風に呼んでる人は他にいないだろうし、森さんから見れば私みたいな行き当たりばったりな人間が「異常」なのはわかっているけど、あえてそう書いている。それくらい私にとって、森さんのモノの考え方、および、その考え方に沿って生きていけていること、はインパクトのあるものだ、ということ(「インパクト」とかいう語をこんな風に適当に使うと森さんは「バカだな~」と思うんだろうな)。

 

 私にとって、森さんの「論理的飛躍の無さ」、「用意周到さ」、「計画通りに物事を遂行していくさま」は、すごく欲しているものである一方で、努力して身に着けたいものかと言われると怪しいもの、になる。

 

 自分が何者でもないただの人であるという事実を一旦脇に置いておく。そして、まあ、いわゆる「超優秀な人間」になるだけのポテンシャルがあったとする。

 

 つまり、地頭が良いとされている学校に通っているとか、家がお金持ちで、自分が望めばどの分野の教育でもたくさんのお金が使ってもらえる、とか。よくわからない。とにかく、「やればできるんだろうな」と周りから思われている、ということ。

 

 で、自分がその状況にあった時に、森さんみたく自分の夢に向かってコツコツと進んでいけるだろうか、と思ったときに、進んでいかなそうだなと思った。

 

 というか、正確には、進んでいきたくないと思いそうだと思った。

 

 つまり、ある目標があり、着実に歩んでいけばその目標に到達できる、と分かっていても、自分はそれができないし、したくないと思っている、ということ。

 

 こうして言葉にすると、かなりひねくれていると感じる。でも割とありふれたことでもあると思う。ダイエットとかはその典型で、摂取するカロリー以上に消費すれば必ず痩せる。でも実際ダイエットに失敗する人も多い。受験勉強も理屈は同じだろう。受験日までに教科書に書いてあることを理解すればよく、理解が足りないと思われる箇所は受験日までに潰しておけばいいので。

 

 理屈の上では、ダイエットも受験勉強も成功させる方法は分かる。けれども、実行できない。そういう人は多いと思う。私もその一人なのだろう。

 

 それで、巷では、「成功させるための方法」を実行‘‘できない‘‘ことが悩みだ、と言う人が多い。でも私は、それは違うのではと思っている。つまり、ダイエットができな語り、受験勉強に失敗したりするのは、「実行力」なるものが欠如しているというよりも、そもそも正しいと言われているダイエット法なり勉強法に則って痩せたり試験に合格するのが嫌なのだと思っている。

 

 それは、そもそも「痩せたくない」とか「志望校に受かりたくない」とはまた違う話だ。そもそも「痩せたくない」、「志望校に受かりたくない」と潜在的に思っていて、現に痩せられなかったり、志望校に落ちることは、実はそれほど不幸なことではないかもしれない。あとあと「痩せなくてよかった」、「落ちて良かった」と思う日が来るかもしれない(ありそうにもないけれど)。

 

 私が考えているのは、目標であるところのダイエット・志望校合格を、本心で達成したいとは思っているのに、それでもその過程でつまづいてしまうことってありますよね、ということであり、実は、その失敗というのは、「正しい」とされている方法論に対して、それこそ潜在意識(か顕在意識なのかは知らないけど)で反抗というか、抵抗しているからでは、ということ。

 

 森さんはそういう葛藤がなさそうでいいな~と思ったということ。

 で、いいのかな。

 

 何か、少し違う気もするな。「いいな~」とは思っていないか。単に不思議、というか、自分には無い感覚だな~とは思った。

 

 森さんの考え方が「生き易い」考え方だとかは絶対言わないけど(まあ、言っているに等しいかも)、自分の考え方って生きにくいよな、とは思う。世間で正しいとされている方法論はとりあえず実践しておいて、その後、一般論が通用しないレベルで、もっといろいろと頭を悩ませればいいとは思う。それが自分にとっては難しい。

 

 なんで最も効率的な方法を実践できないのだろう。

 

 森さんの言うように「今それをしなければ(すれば)、後々どうなるかが分かっていない」だけなのだろうか。今ドーナツを食べれば、明日今日以上に体を動かさないといけなくなる、とか、今日勉強サボれば合格が遠のく、とか。その未来予測が雑すぎるって話だけなのか。

 

 まあ、多分大方そうだと思う。未来予測の詰めが甘い。で、未来予測の詰めが甘くなるくらいその夢に対しての気持ちも大したことない、と言われても仕方ない。

 

 つまりは面倒くさがっている、甘えているということ。

 

 最初、この文章は、「自分の計画性の無さを矯正するためにPDCAについての本を買ったけど長続きしなかった」ことについて書いていた。その後、森博嗣さんの本を読む、自分は森さんのように計画通りに物事を進めることが苦手であり、もしかすると、それは自分の中にある「正しいとされているものに従いたくない」という気持ちが原因なのではないか、と言うところまできた。そして、それは単にいろいろと面倒くさがっている、または甘えているということなのだろう、というところまできた。

 

 こうして文章にして客体化してみると、読み返してみると、やはり自分は甘えている部分が大きいように思う。ただ、もう少し、単に「甘えているだけ」と切り捨ててしまわないで、自分の、この、一般的な価値観からすればどうしようもない性癖とでもいうようなものと付き合っていきたい。

 

おわり

 

 

 

 

退屈 あと、退屈さとは関係無い話として、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ

下の文章は2021.1月5日に書いていたもの。

今も同じようなことを考えている。

 

(↓2021.1.5に書いた文章)

僕の人生を一言で表すならこれ(=「退屈」)だな。

 

今日はひどく憂鬱な一日だった。

人生になど何の意味も無い、という考えが何度もよぎる日。

 

人間いつかは死に、それまでその人が築き上げてきたものは、その人が死ぬ瞬間(少なくともその人にとって)無に帰す。

 

人は誰しもこの運命とともに生きているけど、皆どのようにやり過ごしているのだろうか。

 

人類が書物を書き残すようになってから数千年とか、もしかしたらもっと長いのかもしれないけど、読んでシックリくるような本に出会ったことが無い。別に本に限らず、しっくり来て「よし、頑張って生きていこう!」と思えた本やドラマや映画に出会えたことが無い。

 

「この一冊が私の人生を変えました」とはよく聞く宣伝文句だけど、その「変えました」の程度が本当に知りたい。

 

思うに、今僕が欲しているような「人生が無意味であることを確認させてくれる」類のコンテンツは、あまりにも発展性が無いために不人気なんだろう。

 

「人生って無意味ですよね」「ええそうですね」

 

この二言で終わってしまう。ともすると「そうやって確認することも無意味じゃねえんか馬鹿野郎!」とツッコミが入る。

 

そして、人生が無意味だと語ること(ここでは「人生無意味発言」としておこう)はたいていの場合「サムイ」ことだとされている。

これは、人生無意味発言に「発展性が無い」ことの結果だと僕は思う。要は「それを話して何になるの?そんなしょうもないこと考えてる間にバイトでもしたら?」ということ(他のバリエーションとしては「そんなしょうもないこと考えてる間に彼女作ったら?」がある)。

人生無意味発言が「サムイ」ことだと世間様が考えるのは至極まっとうなことだ。

僕自身ですら、その考えには87%くらいは同意する。

 

ただ残りの13%では、「そうは言っても事実は事実やろがい」と思っている。

だから、もし僕の目の前で人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う。

 

(以上2021.1.5の手記)

 

この後何が書きたかったのだろう。

 

最後の、「人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う」というのは、今も変わらない。

 

「虚しさ」を口にすると、すぐに「メンヘラやん」と言う人とはあまり近づきたいと思わない。

 

人が「浅い」か「深い」かを自分は普段あまり考えないけど、すぐに「メンヘラやん」と言う人には、かなり「浅さ」を感じる。

 

「メンヘラ」であること・「病んでる」ことを何か(マイナス方向に)特別なものとして見ており、自分がそういう状態にはなっていないこと(「メンヘラ」でないこと・「病んで」いないこと)をことさらにアピールする様がむしろ痛々しい。

 

こんなこと言っても仕方ないなぁ。

 

 あと、先日、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ。この文章のタイトルをもともと「退屈」にしていて、このままだと千原ジュニアさんの『14歳』が退屈だった、みたいに受け取られそうなので、「退屈さとは関係無い話として」とわざわざ書いた。

 

 実際、ジュニアさんの『14歳』は、退屈さとはほど遠い作品だった。「鬱屈としている」とか「ふさぎ込んでいる」とか「悶々としている」なんて形容が全て愚かに、どこまでも舌足らずに感じるような、読んでいてこちらが気持ち悪くなってしまうような緊張感のある作品だった。

 

 だから、「退屈」な作品ではなかった。もちろん。

 ただ、どうして今僕が、このタイトルの中にジュニアさんの作品を読んだことを入れているのかと言えば、何だろう。タイミング的にこの文章に入れるのが適当と思ったのはあるし、あとは、僕の感じている「退屈さ」と、合う、というか、勝手にこっちがシックリきているからだと思う。

 

 いろいろ話が変わってしまうけど(話も変わってしまうし、文体も、主語ももしかしたら変わってしまっているかもしれない。「僕」だったり「私」だったり。さすがに、「私」の方が適切?な気がしてきた)、それは、最近読んだ『ライティングの哲学』に多少影響されている所がある。

 

 別に、その本の中で雑に書くことが推奨されていたわけではないけれど、それでも、書けない事に苦しみ続けるよりかは、体裁に気を使いすぎることなく、思いを文章にしていってもいいのではないかな、なんて思ったりしている。

 

 私は、後になればもっと良い文章が書けたりするんじゃなかろうかと思って、文章を書くことをため®ってしまうことが多いので、「ぐちゃぐちゃだな」くらいでも、とにかく文章にしてみてもいいかもしれないな、なんて思っている。

 

 思えば昔から、自分の書いていることが論理的に正しいだろうかということを過剰に気にしていた。「だから」、「でも」「または」などの接続詞(でいいよな)でキチキチと文章をつなげていくことに対して苦手意識があり、でもそれは多分、論理的であることへの過度の執着心の結果だったのかもしれないとも思う。

 

 最近は、「とにかく言葉をつなげること」をしてみてもよいのでは、と思うようになってきいる。昔書いた文章に、こうして感想を書いて投稿しているのもその一環だろう。とにかく一旦吐き出してみてもいいのではないか、と。

 

 千原ジュニアさんの『14歳』について書いていたのだった。

 

 私には、ジュニアさんの14歳の頃のような、激しい「反抗期」と言うものは無かったように思う。否、中学、高校時分に無かっただけで、今24歳にして迎えているのかもしれない。

 

 だから、『14歳』を、14歳の私が読んでもあまりピンとこないというか、共感に似た感情は湧かなかっただろうと思う。今でも、この感情の動きを「共感」と呼んでいいのかはかなり怪しい(だって、私は彼のように部屋に鍵をかけて断続的に引きこもる、という経験を、それそのままの経験をしていないのだから)。けれど、14歳当時の自分が、このような本に見向きもしなかったであろうことを考えると、多少、この小説の主人公の気持ちが「分かる」ようになった、と言ってもいいとおもう。

 

 いや、「気持ちが分かる」かどうかなんてどうでもいいいことだな。大事なのは私がどう感じたか。それだけ。

 

 感じたことを出来るだけ素直に書くとするなら、小説の主人公(もう、ジュニアさんでいいか。同じことだろう)は運が良かったんだな、と思った。

 

 ジュニアさんは怒るだろうけど、私はジュニアさんのことを悪く言いたいわけでは全然ない。ただ、一定期間引きこもった後に、彼のように社会復帰どころか、芸能かいの第一線で活躍できる人もいれば、そのまま引きこもり続ける人もいる、と言う話。

 

 もちろんジュニアさんが常にギラギラと、「自分が闘うべき場所」を探し続けていた、切実に欲し続けていたから、「お兄ちゃん」の誘い及びそこから生まれたチャンスを無駄にしなかった、と言えると思う。つまり、彼がチャンスをうかがい続けていたことが、彼の成功のカギだったと言えるとは思う。

 

 全く彼の成功について何か言うつもりはない。ただただ、この世界はあるがままで、成功者もいれば「成功者とは呼ばれない人」もいる、という当たり前の事実を、強く感じている。

 

 いや、ほんと何が言いたいんだろうな。う~ん、でも、多分、主人公に対して、やっぱり私には羨ましさがあるのかな。それを「この世界はあるがままで」なんて言い方をしているのかな。でも自分は、14歳の時にそんなに深く考えることはしなかったしな。

 

 あと、なんだろう、彼にとっては、中学や高校は無機質な場所だったのだろうと思うし、その延長線上にある、大学や会社だって、もちろん彼にとっては無機質極まりない場所だったはずだ(大学はどっちかというと無機質ではないかもしれないけど、それだって、サークル活動とかバイトとか、大学生活が無機質でない印象を与えるだけであって、大学自体はまあ、無機質と言ってもいいのじゃないかな。少なくとも彼はそう思っていたろう)。

 

 その彼は、お笑いを見つけて、それ以降は、テレビの向こう側からこちらの無機質な世界を見るようになったと思うけど、それで彼は救われるのだろうか。

 

 「彼が救われる」というか、彼は、自分以外の人間が、テレビの前の無機質な世界で、生き続けることを、テレビの向こう側から見ていてどう感じるのだろう。

 

 自分は救われた、と感じるのだろうか。自分は自分が生きていく道、「闘うべき場所」を見つけた、という気持ちの中で生きていけるのだろうか。

 

 「闘うべき場所」を見つけられなかった、もしくは、見つけようともしなかった人間は、バカな人間なのだろうか。

 

 非難しているみたいな書きぶりになってしまっているかな。でも、私は多分知りたいだけだと思う。彼が「救われた」と感じるなら、私もそのような道を見つけたいから。

 

 まとまらないけど、なんとなく書きたかったことは書けた気がする。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

微妙なニュアンスをたのしむ

昔書いた文章の感想を自分で書くのは面白い。

やっぱり、すでにあるもの(今だと自分が昔書いた文章)に対して何かしら言う方が楽でいい。

 

今は資格試験が終わり、とにかくなんでもいいから吐き出したいから、昔の下書きがたくさん残っていてありがたい。

 

下の文章は、今年の9月頃に書いていたもの。

 

(以外、2021.Sep頃に書いていたもの)

14日ほど前から、勉強時間を測らないようにしている。

 理由は、「今日は~時間しかできてない」と、勉強時間ばかり意識して生活するのが嫌になったし、勉強時間ばかり気にするのは資格試験を進める上で、本質的な作業ではないと思ったからだ。

 理想的なのは、1日10時間とかそれ以上勉強して、かつその中身も濃いパターン。要は質も量も備えているという。

 僕の場合、質と量の両方を同時に改善していくのが難しそうだったから、とりあえず質を重視しようということで、ひとまず時間を測ることをやめてみた。

 

 半年前くらい前は、時間を測らずにいて、さすがに量がこなせてなさすぎるからと、時間を測ることにした。

 つまり、この半年ちょっとの間で、「測らない」→「測る」→「測らない」

 

・9月5日

 今日はラインマーカーの使い方についても、思い込みがあるかもしれないと気がついた。

 マーカーは何色も引かない方がいい。何色も色分けしても、見づらくなるだけだ。という思いこみがあったが、必ずしもそうとは言えないだろう。

 

(以上2021.Sepに書いた文章)

 

タイトルが「微妙なニュアンスを楽しむ」になっていることから、当時、退屈に感じる資格試験の勉強にどう楽しみを見出そうかと考えていたことが伺われる。

 

「楽しみ」と言っても自分にとっては死活問題で、それは今も変わらない。

 

学校での勉強から、会社での労働。

毎日同じことの繰り返し。

 

こんな風に考えているので、この先の人生しんどいなぁ、みたいによく思う。

 

でも、上の文章を書いた時くらいから「自分の現実認識が粗すぎやしないか」と思い始めた。

「毎日同じことの繰り返し」って言ってもちょっとは違うだろう、と。

 

同じ先生の講義でも、毎回内容は違うわけで、それは「微妙」ですら無い変化だけど、同じ「講義」という名前のもと、一括りにして、あまりにもさーっと目の前を流れさせてしまっていないかと。

 

そもそも「同じ」とか「違う」とか、相対的なものでしかないな、と思い始めた。

 

いや、揺れている。ずっと揺れている。

「とはいえ、退屈なものは退屈やろう」ともよく思う。

ただ、これまでは「揺れ」てすらいなくて、「ずっとこのまま同じことの繰り返しやん」としか思ってなかったから、“視野が広がった“と思っていいだろうか(「視野が広がった」と書くのは不本意。他が思いつかないのでこの言葉でいく。便利な言葉なので)。

 

何かをするときに、“本当に“自分が選んだものではない、という意識がどこかにあると、「好きになるしかないから好きになってるだけやん」と思ってしまう。

 

人生も、その始まりが「自分で選んだものではない」から、「好きになるしかないから好きになる」しかないものだと思う。

 

別に、好きにならなくてもいいけど、好きになった方が得だから好きになった方がいい、という点で同じ。

 

だから、今取り組もうとしているものが“本当に“自分が選んだものかどうかは置いておいて(というより、その問題に苦しみ続けながらも)その対象の小さな変化を楽しめるようになればいいな、と思う。

 

もちろん、嫌いなままでも取り組める人はそれでいいと思う。自分はそうではないかもしれないので、好きな部分を見つけないと付き合い続けられない。

 

 

終わり

 

変えられるもの、変えられないもの

下の文章のおおもとは4.5か月くらい前(つまり2021年8月あたり)に書いていたもの。

今(2021年12月)読んでみて、少しだけ手直しして公開する。

中途半端な文章のまま「下書き」ボックスに入っているものが多く、それを削除してしまうのももったいないし、かといって放置し続けるのもなんなので。

また言い訳めいたことを書いてしまっている。

 

(以外、2021.Aug頃に書いていたもの)

日々、「頑張らなくては」と思うことが多い。

特に、大学に入学して以降の5年間、強迫観念的にに僕にこの考えがまとわりついてきた。

でも強迫観念がいて回る割には、満足のいく成果が上がってない。

そこで僕はなんで成果が上がっていないのかを考えてみることにした(僕の求めている成果が大きすぎるっていうのはある。"一般的な”価値観からすると誇大妄想と言われてもおかしくないレベルの目標をたてがちなので)。

 

それで気が付いた。

自分が一体何を頑張ってきたのかを自分ですら把握できていないことを。

 

「どう頑張るか」を考える前の話だ。方法論を考える前に、何を頑張るかのかがそもそも明確になっていなかった。まあ、なんとなく生きていたのだな。

じゃあ、今後は頑張る対象を明確にしようと思った。

 

そうすると、次は一体何を頑張るんだってなって、自分はどの分野の何なら頑張れるかなと考えたけど、そもそも「頑張れる」対象って「変えられるもの」だなということに気が付いた。

 

だってそうだろう。

絶対に変えられないことに注力しても何も成果は上がらない。端的にゼロだ。

「変えられないことに注力しても成果は上がらない」は言葉にしてみるとその疑いようのなさが分かるけど、実際僕は変えられないものに注力していて可能性がある。否定はできない。

 

だから何を頑張るのかを考える前に、何なら「頑張れる」のかを考えるべきであること。好き嫌い・モチベーションの話以前に、原理的に「頑張ることが可能なこと」は何なのかを整理すべきだと僕は思った。

 

まず、世の中を見回すと「変えられるもの」の方が多そうなことに気が付く。

スマホの設定を変えることができるし、電気をつけて部屋の明るさを変えることができるし、整形すれば顔を変えることができる。

学歴を変えたければ今何歳であっても、入学条件さえ満たせば望む学校に入学し学歴を変えることができる。自分の身体がある場所を物理的に変化させたいのであれば宇宙空間にだって移動させることもできる。

最後2つは実現するのは難しいかもしれないけど、別に無理ではない。

 

こんな風に世の中には、パッと見では「変えられる」ものの方が圧倒的に多い。

とすると、「変えられるもの」が何であるのかを考えるためには少数であろう「変えられないもの」を挙げて、それ以外が「変えられるもの」とするのがいいみたいだ。

 

ではでは、「変えられないもの」とは何か。

僕は過去自己同一性だけは変えられないのではと考えている。

両者は厳密に言えば同じこととも言えるかもしれない(「過去」に「自己同一性」も含まれるかもしれない)けど、そこは後々触れたい。

 

まず、過去が変えられないものであることについて。

まあ、これに異論はないだろう。

「西暦××年にAさんに告白して振られた」という歴史的事実は、この世界に"客観的に”(ここにツッコまないで)存在している。

もしその何年か後にAさんに再アタックしてその恋が成就したとしても「振られた」という歴史的事実が変化するわけではない。

 

鎌倉幕府の成立が1192年と教科書に書かれていようが、1185年と書かれていようが、真の歴史的事実は「いつも一つ」ということ。

 

次の自己同一性とは、ここでは「そのものの成り立ち」と同じような意味で用いている。

 

今ここに、外見では一切区別できないティッシュの箱が2つあるとする。

その時僕たちはふつう同じティッシュの箱が2つあると考える。

でも、「そのものの成り立ち」という観点でいうとその2つは明確に分けることが可能だ。

片方の箱は中国で作られ、片方はベトナムで作られた後に僕たちの目の前に持ってこられれたとしよう。

その仮定のもとでは、両者は「どこで作られたのか」という属性によって区別ができる。

 

仮に二つの箱が同じく、中国のある工場の、ある製造ラインで、同じ日に、同じ材料から作られていたとしても厳密には両者は区別可能だ。

片方の作られた時点は、もう片方の作られてた時点よりも微妙にずれているはずだし、両者が作られてから僕たちの目の前に届けられるまで、そして現に今もこの世界の中で占めている座標軸は同じではありえないからだ。

 

同じ時点(瞬間)に世界の中の同じ座標軸を占める物体が存在しない(僕は考えるのでその線で話をする)以上、この世のあらゆる二つ以上の物は、それぞれに固有の成り立ちを持った存在であると言える。

 

そして、僕が「自己同一性」を変えることができないというのは、端的にいうと「これまでの『成り立ち』を変更はできないし、これからもそれはできない」ということだ。

 

これから先の未来に、さっき登場したティッシュの箱が、世界のどの位置を占めていくのかは今現在では確定してはいない。

 

次に、「変えられることのできるもの」=「可変物」と「変えられないもの」=「非可変物」との境界を探しにいく。

 

ここで取り組む課題を定式化すると次のようになる

 

すなわち「すべてのモノ、存在者(=万物or世界)を『可変物』と『非可変物』に分ける境界線は何か?」となる。

 

では最初に、可変物の具体例から考える。

 

例えば、身長。

 

今日と昨日では、身長はごくごくわずかであっても変わっているはずだ。

 

次に、テストの点数。

 

過去のテストの点数は変えられないけど、これから受ける点数は「変えられる」。

 

厳密に言うと、まだ存在していない将来のテストの点数を「変える」とは言えない。

これは難しい点だ。

 

例えばAさんは第1回のTOEICの点数が500点だったとして、第2回のTOEICが600点だったとする。

 

この時、AさんのTOEICの第1回目の点数は金輪際500点だ。

でも「Aさんが獲得したTOEICの点数の最高点」は、Aさんが第2回のTOEICの点数が600点を獲得した時点で更新された。

 

一つのモノについてどの側面から切り取るかによって変わるか変わらないか両方あるようでも、適宜言葉を補ってやれば一意に定まる。

 

逆に、変わる変わらないが一つに定まらない時は、さらに分析可能であるともいえる。

 

例えば「日本」。

 

「日本を変えたい」というスローガンがあるくらいだから日本は可変物か。

でも、世界史の中の「日本」が毎回違う対象を指していたら困る。

 

個々では次のように理解してはどうか。

 

「日本を変えたい」という時そこで意味されているのは、「日本の政治・労働環境・経済を変えたい」ということだ。

 

世界史の教科書に登場する「日本」は逆に概念としての「日本」。

抽象的な存在、理念としての存在だからこれは変わりようがない。

人口が100人になろうとも、独裁国家になろうとも、島国でなくなっても「日本」は「日本」のまま。

 

↑ここまでが2021.Aug頃に書いていた文章。

 

最初の方は面白く読めたけど、「『可変物』と『非可変物』の『境界線』を探る」というのが、日常生活の中でどんな意味があるのかな分からんな、というのが率直な感想。

 

「身長」は「可変である」と言ったときに、そう言うことがあまり意味の無いものに映るのは、「身長」は自分の意思で変化させられるものではないからだろう。

 

逆に上の例で言えば「TOEICの点数」が「可変である」というのは、日常的な意味でも十分意味がある。

 

「日本」が可変かどうかの話については、本旨とズレてるかなと思ったけど、抽象的な名詞(ここでいうと「日本」)が指す対象が何なのかを、実はハッキリさせないまま語ってしまっていることがあるかも(だから気をつけよう)という自分への戒めとしては意味があったかも。

 

「過去」と「自己同一性」は変化させられない、という主張は、ある程度正しいものとしていいように思った。

 

上でも書いているように、この2つを合わせて「過去」と考えてもいいかな。

 

この文章から引き出せることは、今自分がやろうとしていることが「変えられないもの(≒過去)を変えようとすること」になっていないかどうかを点検するべし、ということ。

 

うん、難しいわ。書くのは簡単やけど。

 

ちょっと、分かった風な感じにまとめようとしてしまっているな。

 

そもそも「過去」を「変えたい」と(切に)思ったことは(たぶん)ないし。無理って分かっているから。

 

でも、なんとなく「『過去に固執』している状態にあるんやろな〜今の自分」と思うことはあって。

 

この「過去に固執する」ことが「過去を変えたい」と思っていることと同じなのか、それとも「過去から何かしら教訓を引き出したい」と考えている状態なのかでは、話が変わってくるな、とは思っている。

 

まとまらない。

 

終わり

 

 

 

 

 

 

インスタントな思考、ドーパミンの欠乏

 大学に入学して以降、まとまった思考が少しはできるようになった。

 「なった」とあえて言い切ろう。ここで「できるようになったと思う」なんて書いても何も始まらない。

 でも、すでにこう書くことがどこか言い訳めいている。

 

 高校までの生活において、すぐに「解答」が与えられないものはそれほど多くなかった。

 僕は意識的に、受験勉強の邪魔になりそうな「すぐには解答が与えられないもの」を避けていたし、周りの大人たちもそれに対して何も言わなかったし、それどころか僕の姿勢に肯定的に見える態度も見せてさえいた。

 もちろん彼らの態度に対して何か言うつもりは毛頭ない。僕がこう生きようとしていきてきたのだから。

 

 問題集を解けば、文字通り「解答」で自分の出した答えに〇か×を付けることができたし、シュートを打てばたいてい1秒以内に、ゴールかノーゴールかを知ることができた。

 テストや模試を受けたって、たいてい1か月も待てば結果を知ることができた。

 

 なんか、大層な書き方になってるな。いつもの悪い癖が出ている。

 別に僕の経験なんてわざわざ書かなくても良いのかもしれない。

 要は、入力に対してすぐに出力があるような、それが当たり前の世界で高校までは生きてきたということ。

 

 たぶん、大学入学以降も、その(単純な、でも十分奥の深い)入力ー出力関係の世界だけを見ながら生き行くことは、理論上可能だったとは思う。

 その世界だけを見ていれば、僕には「インスタントな思考」さえあればことたりたろう。

 

 瞬間的にものごとを把握して、瞬時に最善の一手を選択肢実行する。

 その場の「ノリ」に逆らわず、瞬時に相手が喜びそうなことをする・言う。

 「なぜ」を問わない。

 ストレートで自分に向かってきたボールをそのボールが来た方向へ即座に打ち返す。

 

 僕にそもそも「インスタントな思考」、インスタントな世界で生きていくための姿勢、インスタントな世界への適応力があったかは置いておいて、僕はなぜか大学入学後、これだけではダメなのかもしれないと思った。

 インスタントな思考だけではダメなのかもしれないと思った。

 

 もっと「深い」思考があると思ったし、その思考法を身につけたいとも思った。

 大学教授はその多くが、より「深い」思考法を身につけていると思ったし、そんな彼らを見ていると、自分が今まで慣れ親しんんだ「インスタントな思考」がどこか「チャチ」な代物にも思えてきた。

 

 それで、そこからいろいろ考えたりしたけど、結局僕は「インスタントな思考」から抜け出せていないと感じる。

  冒頭に書いたように、「まとまった思考」(=「深い」思考)が以前よりは少しは多くできるようになったと思うが、それでも比重は「インスタントな思考」の方が大きい。

 

 今の僕は、より「深い」思考を手に入れたいという思いも少なからずあるものの、「インスタントな思考」から抜け出せないでいる。

 

 具体的にいうと、ブログで文章を書いたりしていても、割とすぐに答えを求めてしまう。

 「で、結局何が言いたいのだろう」と。

 多分、そう問うこと自体は悪いことではなくて、そう問いながら考えを明確にできるとよい。知らんけど。

 

 自分の場合は、最近気がついたけど、解答が欲しくて焦ってしまう。

 解答が無いまま、宙ぶらりんのまま「放っておく」ことがなかなかできない。

 

 否、「放っておく」ことはできているのだけど、肝心の「一度放置した問題に帰ってくる」という工程がどうも苦手だ。

 「放っておく」のは、文字通り問題を放置すればいいだけだから、割と簡単にできる。「放っておいた」トピックに対して、一定時間の経過の後、また取り組み直す、胆力・体幹、が足りていない。「思考のインナーマッスル」だな。

 

 一度考えたことに再度取り組めないなのは何でだろうと考えてみた。

 それは、一度考えた物事に対して飽きてしまうから。

 じゃあ、「飽きる」って他の言い方をするとどうなるかと言うと、これはつまり、ドーパミンが欠乏しているのだと思う。

 

 ドーパミンとかアドレナリンとかエンドルフィンとか、「脳内物質」(もうこの言葉は陳腐過ぎて使うのがためらわれる)にはいろいろあるけど、とりあえず、「興奮系」の作用を司るものを代表してドーパミンと呼んでおく。

 あってるか知らない。ドーパミンは成功報酬として放出されるというよりかは、その放出によってなんらかのアクションを生物に起こさせるものだから僕が使いたいイメージにはあってるはず。

 

 人及び動物がなんらかの動作をするには、多少なりとも興奮系の脳内物質が放出されているはずで、結局、「飽きる」というのは、その対象を前にしても、このドーパミン(興奮系の脳内物質)が出なくなってしまった状態と言い換えられるな、と。

 

 それで、YouTubeとかTwitterみたいな、入力ー出力が時間的に短いスパンで存在しているものには、ドーパミンが出るけど、いろいろ調べ物をして、公式覚えて、人に質問して、ようやく少し前に進める類の作業(例えば大学の研究)をして、ドーパミンが放出される回路が僕の中ではまだまだ整備されていない。そう思う。

 

 整備されていないというより、「開発されていない」と言う方がシックリくる。

 短いスパンの入力ー出力関係からドーパミンを取り出すことは、多分大多数の人が何の苦もなくできる。その一方で、長いスパンの入力ー出力関係(例:大学の研究、会計の勉強)からドーパミンを取り出すのは、ある程度その作業を繰り返して、ドーパミンの回路をつなげていく必要がある。

 

 ただ、あまりにも入力ー出力関係のスパンが長すぎたり、入力をし続けているのに、出力の方が全くないとなると、たぶん当分はその入力ー出力関係を作動させようとは思えない。

 それよりは、もっと手軽に入力ー出力関係を完成させて、手軽に「報酬」を得られるほうを選ぶはず。

 

 僕の現状はそんな感じだろうな。

 

 入力ー出力関係のスパンが長ければ長いほど、遠大な思考だと思ったりしていたけど、とうとうその活動に向かうためのドーパミンが切れてしまったようだ。

 うーん、でも今に始まった話でもないか。随分前からそういう「カッチリした」勉強に対して、ドーパミンは放出されていなかったかも。

 

 なんか「インスタントな思考」とか書いて、そっちを貶めるような書き方になっていないか心配になってきた。そっちの思考法を貶める気はまったくない。

 結局、両方の思考法が必要だと思う。ただ僕は「インスタント」なほうに偏っていたから、すこしバランスを取る必要があっただけ。

 

おわり

 

 

 

意識の過剰さ、および出口の無さ

 「意識の過剰」という言葉とは、たしか千葉雅也さんの本の中で出会った。

 明確な定義は覚えていないけれど、「特定の目標を持たない『意識』が、コントロールできない状態で、大量にあふれる」というようなニュアンスで使われていたように思う。

 少なくとも僕が、この言葉を借りてきてものを考える時は、上の意味で使わせてもらっている。

 

 大学に入学して以降、だからここ5年半ほど、常に「意識の過剰」と共に生きてきた。

 人と一緒にいて、会話などしているときは、会話の方に意識がある程度集中するために、「意識の過剰」からは、一時的に解放される。

 でも、一人でいる時、特にスマホや読書ができない、自転車や徒歩・バスでの移動中(僕は乗り物酔いをするタイプだからバスではスマホをいじったり読書ができない。電車なら、なんとか本くらいなら読める。スマホは画面が小さくて、電車でもあまり見たくない)は特に意識が過剰になる。

 

 「意識が過剰」なとき、僕の頭には、だいたい同じようなことが浮かんでくる。

 「だいたい同じこと」なのだけど、その場、その場でその内容のメモを取るわけではないから、今回浮かんできた内容が、これまで浮かんできた内容と同じものなのかどうかが分からない。

 ただそれでも、何十回と頭に浮かんできた観念は、さすがに既出であることに気が付く。

 例えば、「人間はいつか死ぬのに、なぜ『前向きに』生きている人がこうもたくさんいるように見えるのだろう。そして、なぜ『前向き』であることが称揚されがちなんだろう→『前向きに』生きている人が遺伝子を残しやすかった(=『前向き』でない人の遺伝子が淘汰された)というだけの話か。別に『前向き』であることが「良い」とか「悪い」と言うわけではなくて、ただ単に「そうなっている」というだけなのだな」というようなことは何度も脳内で再生されている。

 

 他にも例を挙げたいけれど、なかなか浮かんでこない。

 上の例も、「だいたいこんなことを考えていたろうか。なんか違う気もするのだけど」といった感じで、自転車に乗っているときに僕の頭に、無意識的に湧いてくる観念とは少しずれている。

 

 僕としては、それがかなりつらい。

 頭の中に湧き出し続けて、僕を苦しめ(ごく稀に楽しませ)続けている観念を、捉え損ねている喪失感みたいなものがずっとある。

 意識が過剰になり始めたのが4・5年前で、それがひどく、より過剰になったのが3・4年まえだから、その間、僕はずっと自分の意識を十分に捉えられなかったのだと思うとつらくなってくる。

 

 自分の考えていたことに社会的な価値など、ほぼ皆無であることは分かっているけれど、その一方で、僕にとって、僕自身の思考は相当価値がある。

 だから、できるだけ、取りこぼしたくない。

 

 このブログを始めたのも、そんなことを無意識的に考えてのことだったのかもしれない。

 ブログを始めた当初の、スマホ使用禁止などの試みは、今書いた動機から大きく外れるように見えるけれど、スマホに対しての自分の向き合い方を残しておきたかった、という側面も無いわけではない。

 まあ、そんなことはどうだっていい。

 

 以前、とにかく意識が過剰過ぎてしんどい時、もっと文章を書いたり、人と話そうと思った。

 でも、意識が過剰になるのは、一人でいる時、しかも出先だからそうして自分が考えたことを外に出すのは難しかった。

 人に自分の考えていることを話すのは、そもそも気が引ける。

 自分の聴きたい話でもないことを、相手のタイミングで話されるのはしんどいだろう。

 

 文章に残すのは、まだできるかもしれないと思っていたけど、案外それも難しかった。

 出先で考えたことは、家に帰って、ノートに向かう頃には霧散している事がほとんどだった。

 ブログに、湧き出てくる意識をそのまま写そうと思ったこともあることにはあるけれど、「タイトル」があって「本文」がある、というそのスタイルを前にすると、肩に力が入って、普段「意識が過剰」になっているときの「自由連想法」とでも呼ぶべき、奔放さは鳴りを潜めてしまう。

 

 たぶん、ブログみたいな、人の目に触れる媒体に文章を残すということで、何かしら結論っぽいものを書かなくてはという意識がある。

 結論、といういわば「出口」がないから、僕の意識は「過剰」なままで、頭の中に充満し続けているというのに、「出口」がまだ見えていないからと、外に出すことをためらっていては、いつまでたっても「意識の過剰」さは収まってくれない。

 

 そんなことをここ最近、漠然と考えていた。

 それも、別に「考えていた」と呼べるほどのものでもなく、ただ、漠然とそういったイメージが頭の中にあった。

 

 それで、結局どうするのかと言うと、これからは、全然形を成していない状態の、グジャグジャの状態の想い・考えも、もっと適当にここに書き込んでいこうと思う。

 

 たまに「意識高い」内容も書くだろうし、そういう「実生活のための」内容と、「グジャグジャの状態の想い・考え」が同居してしまうのは少し気持ち悪いけど、新しいブログを作るのも面倒だから、当面はここにひとまとめで書いていく事にする。

 

おわり

 

 

 

「私たちは生きる世界を選べないの」『天才感染症』デイヴィッド・ウォルトン(著)より

いや~、良い言葉だ。

 

先日、僕としては珍しくSF小説を読んだ。

その名も『天才感染症』。

 

 

 

 

「天才」という文字が目に入ると、「ちょっと立ち読みしてみるか」という性質で、今回もそのパターン。

 

この小説のあらすじはこんな感じ。

 

正体不明の菌が人々の知能を急激に向上させてしまうが、その菌に感染してしまった人は菌の繁栄を目指して行動し始めてしまう。

 

粗すぎるが、あながち間違ってはいないはずだ。

 

読み終えて1か月くらい経つが、内容面でそこまで印象に残っていることは無い。

最初の方はとても面白かった。

主人公がNSA(日本で言うところの「公安」)に入る辺りは、「NSAってカッコええな~~」って思って読んでいた。

中盤以降、菌との闘いが熾烈になって来る頃以降もまあまあ面白いけども、序盤ほど引き込まれなかった。

 

この本で印象に残っているのは、主人公の上司(同僚だったかも)がと放った

次の一言。

 

私たちは生きる世界を選べないの

 

このセリフが発せられたのは、敵(=菌)が猛威を振るい、「人類がヤバイ!」となり、主人公がパニックになってしまった場面だ。

 

せっかくなので台詞(地の分少し)を全部載せておく。

ちなみに「メロディ」というのは、主人公の上司の名前である。

 

「私たちは生きる世界を選べないの」メロディが疲れた声でゆっくりと言う。「正直なところ、わたしが生きてきた世界は、これまでだっていいときなんてほとんど無かったわよ。この菌は人間の心のもろい部分を解法してしまった。一度壺からでた魔人はもう戻せないの。間違いなく利用されるし、悪い目的のために使われるでしょうね。でもわたしには世界の問題すべてを解決する力なんてない。自分の家族の問題でさえ、大方は解決できないのよ?わたしにできるのは、限られた知識と手の内にある道具を駆使して全力を尽くすことくらいだわ」

 

        デイヴィッド・ウォルトン『天才感染症(下)』 邦訳pp. 165~6

 

僕がこの「私たちは生きる世界を選べないの」という言葉が気に入っているのは、人間の絶望をごくシンプルに凝縮しているからだ。

それともう一つ、この言葉には絶望が詰め込まれているが、それと同時に、どこか前を向いていこうという気にさせる所があるからだ。

 

「壺からでた魔人」や「間違いなく利用される」云々については実際に小説を読んでもらうとして、ここでメロディが言っていることは、現実世界にも十分当てはまる。

 

紛争・差別のような分かりきった不幸・災難を持ち出すまでもなく、”平和”とされている日本での平凡な日常生活においてだって、起きないに越したことはないことなど山ほどある。

 

受験に失敗して意気消沈するかもしれないし、会社でリストラに遭うかもしれないし、容姿でいじめにあうかもしれないし、一生「失われた」時代を生きることになるかもしれない。

 

そういう災難があった時、人は「自分がこの世界を選んだわけじゃないのに~~!」って思うだろう(僕はたまに思う)。

 

僕はもともと「自分がこの世界を選んだわけじゃない」みたいに上手いこと言語化できていたわけではなくて、この小説の上に書いたセリフを読んだときにはじめて「これや!」ってなった。そして、僕が日ごろ抱いていたモヤモヤのほぼすべてが「私たちは生きる世界を選べないの」という台詞に凝縮されていることにも気づいた。

 

この「私たちは生きる世界を選べないの」の後に「でもわたしには世界の問題すべてを解決する力なんてない。自分の家族の問題でさえ、大方は解決できないのよ?わたしにできるのは、限られた知識と手の内にある道具を駆使して全力を尽くすことくらいだわ」と続くのが僕的には気に入っている。

 

「自分で選んだわけではないよ、どういう世界・社会・国・家庭に生まれてくるか、なんて」

 

それはそうなんだけど、やれることやっていこうぜ

 

こういうメッセージを僕は受け取った。

いや、まあ、誰が読んでもこれに近いメッセージを読み取るのだろうけど、僕は特に刺さった。

 

「こんな世界を選んだのは自分じゃない」といつまでも考えていても何も良くはならない。一生何も変化しない。

 

それなら何十年かかってもいいから、少しでも自分が「良い」と思える方向に進んでいった方がいい。そんな風に少し思えた。

 

おわり

 

p.s.   2021.7.6

上の文章を書いたのが2021.6.24あたり。

現在2021.7.6。前回文章を書いたときの自分は随分ポジティブだったなと感じる。

 

日常生活を送りながら、上に写した小説の一説を時々反芻してみるが、ここ数日は「どこかやはり綺麗ごとなのでは?」という考えに傾きがちだ。

この世界があんまり良くない場所であることの例として、僕は上の文章で紛争・差別・受験の失敗・リストラ等を挙げた。

 

その文章を書いているときはその例も適切だと思っていた。

その例「も」と書いたのは、紛争・差別などの例は適切なのだけど、その例だけでは言い尽くせていないものが他にまだ(まだ)ある気がすでにしていたから。

 

で、その「言い尽くせていないもの」ってなんなのかな~って最近考えて、出てきた例は、例えば「人はいつか死んでしまう」こととか「人と人は究極的に分かり合えない」ことだなどだった。

 

あと、「結局自分の幸せは誰かの不幸になる(もしくは自分がそう思い込んでしまう)こと」も外せない。

 

この3つの例は、いわば普遍的な問題だと思う。少なくとも僕はそう思う。

 

紛争も差別も普遍的ではないのか、という人がいるかもしれない。

難しい所だと思う。

でも僕は人がいずれ死ぬことに比べれば、この世界から紛争・差別が存在することは必然的ではない気がしている。

「人がいずれ死ぬ」のも、経験的に蓋然性が高いという話ではあるので、人がいずれ死ぬことに比べて、この世界から紛争・差別が存在することの必然性の程度は低いとでも言っておこうか。

 

「結局自分の幸せは誰かの不幸になる」はどいうこと。

受け取り方によっては、すごく主観的なことを言っているように聞こえる。

 

僕がこの言葉で意図しているのは、別に人に限った話ではなくて、生きとし生けるものの、この世界内での闘争について回る悲しさだ。

 

もうほんと、まったく善人になりたいとかは思わない(いや、ちょっとは思うよ)けど、やっぱり、理想は誰も「泣かない」ような世界だと思う。

 

人間社会は権力の無い人が、動物界では力の弱いものが(環境に適応できないものが)ツライ目に遭うわけで。

 

僕は、自分自身がツライ目に遭うのも嫌だけど、この世界の構造上誰か(人に限らず)はそういう目に遭わざるを得ない、というのも同じくらい(さすがに自分が可愛いので「同じ」とは言い切れない)嫌だ。本当に理想論だ。

 

こう考えると、「結局自分の幸せは誰かの不幸になる」というのが、紛争・差別よりも必然性の程度が高いという主張も、それなりに頷けるのではなかろうか。

 

そして、ここで挙げた「人はいずれ死ぬ」とか「人と人とは究極的には分かり合えない」とか「自分の幸せは誰かの不幸」とかは、「まあ、仕方ないよね」という話であることも、なんとなくわかっている。

 

最後に僕の言いたいことをまとめる。

 

パターンA

100個の大きな問題があります。

その100個の問題は何千年かかるか分からないけど解決不能ではありません。

そんな世界に僕たちは生まれました。

誰かが言いました「私たちは生きる世界を選べないの」と。

それを聞いた人々は言いました「確かに何千年かかるか分からないけど、地道にできることをしていこう」と。

 

 

パターンB

100個の大きな問題とそれとは別の5つの問題があります。

100個の大きな問題は何千年かかるか分けらないけど解決不能ではありません。

ですが、別の5つの問題は解決不能のようです。

そんな世界に僕たちは生まれました。

誰かが言いました「私たちは生きる世界を選べないの」と。

それを聞いた人々は言いました「そうだね。何を目指して生きていけばいいのだろうね」と。

 

おわり