三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

『感じない男』森岡正博 (ちくま文庫)

去年(2020)読んだ本。遅ればせながら感想を書く。

 

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

 

 

 僕はこの本からかなり衝撃を受けた。自分の読書体験の中での衝撃度トップ5くらいには入ってこようという本だ。

この本を読んでまずすごいと思ったのは、この本で扱われているのが「性(セクシュアリティ)」ということもそうなのだが、そのようなトピックを現役の大学教授自身の経験をもとに書いていることだ。

 

 僕の大学教授のイメージ、特に文系の教授のイメージは、まさに「文化人」というもので、良くも悪くも「教養主義的」な感じがする。

 

 講義中の雑談なんかも、学生に寄り添おうと日常的な話題をからめながら話そうとしているのは分かるが、根が真面目過ぎるというか、模範的過ぎるというか、あまり身近に感じられない話が多い気がする。

 

 昨今は「コンプラ」が声高に謳われていることもあってか、彼らの話はどこか人間味が書けているように思う。

 

 教授様の話に一学生が文句を言う気はさらさらないのだが、正直なところがそうなのだ。

 

 その点、この本では、著者の人間味、どころかセクシュアリティまでが語られている。僕は正直、教授からはこういった語りを聴きたいんだ。

 

 射精についての森岡氏の話が特に面白かった。マスターベーションについて、友人と話すことなどほとんどなく、各人がその行為について本当のところどう思っているのかなど知るよしもない。

 

 その点、森岡氏は自身の自慰行為について、充実感・快感から虚脱感・空虚感・敗北感へと転落していくプロセスである(p. 41)と述べられているが、僕もこの表現に納得した。

 

 また、射精後の感覚については次のような記述がある。

 

  射精のあとは、性的なことからはとうぶん目をそらしていたい気分なのだが、  

  日時がたってくると、また性欲が湧いてきて同じことをしてしまう。(p. 41)

 

まさにそうだ、と思う男性読者も多いことだろうと思う。僕もこの記述には大きくうなずいた。

 

  次に僕があまり共感できなかった点について。

 

 射精自体の快感の小ささと、この引用箇所で示したような「射精したあとで、一気に興奮が醒め、全身が脱力し、暗く空虚な気持ちに襲われる」ことの二つを指して、森岡氏は「男の不感症」と呼んでいる(p. 39)。

 

 僕はこの感覚がイマイチわからないなと思った。前述のとおり、射精後に虚無感・虚脱感があるということには100%同意するのだが、そのことを「男の不感症」と呼ぶのはなんとなく違和感がある。

 

 多分その違和感の根本にあるのは、「不感症」が「男の」と限定されている点だと思う。

 

 森岡氏は、「男の不感症」を患っている男、つまりほとんどすべての男性を「感じない男」と呼び、次のように語る。

 

  話を戻せば、「感じない男」の心のそこにあるのは、「敗北感」であると私は思

  う。女が感じるような快感を、けっして味わうことができないという、どうにもな

  らない敗北感だ。(p. 45)

 

 僕はここで言われている「敗北感」を感じたことが無い。別に意地を張っているわけではなく、この本を読むまでそのように感じる人がいるとも思っていなかった。

 

 僕はさっき書いたように、男が性体験のあと虚脱感に襲われることは認める。しかし、その一方で女性は男性の何倍も良い想いをしているかと言うとそれは分からないのではと思う。

 

 たしかに、女性には男性が感じているような虚脱感はないのかもしれない。しかし、そもそも「虚脱」できるほどに「高まる」ことを、多くの女性ができていないかもしれないじゃないか、と僕は思った。

 

 正直詳しいことは分からないが、男性は誰でもある程度簡単に小さな快感を得られて、事後に虚脱感がある、女性は、一部の人が大きな快感を得られて、事後に虚脱感もない、というのが実情な気がする(生々しい話になってしまった)。

 

 詳細は分からないが、とりあえず男だけが性の喜びから疎外されている、というのは僕は納得できなかった。

 

 この本を読んで僕は、教授という社会的身分の高い職業の人が、このように、自身の性体験を赤裸々に語ること自体に感動すら覚えた。

 

 社会的に影響力のある人間は、たいてい綺麗ごとを言ったり事なかれ主義的になるものだと思っていたが、大学教授でありながら、人間の醜い部分をあくまで自分のこととして語ろうとする人も中にはいるんだと驚かされた。

 

 人の(ある意味)醜い部分、例えばセクシュアリティなどについて、「人とはこういうものですよ」と一般的に、もしくは「一歩引いた地点」から記述することは、(もちろん難しいのだけど)身を切るようなキツさは無いと思う。

 

 科学的、もしくは学問的な記述は、「私」をカッコに入れてしまえるから、つまり、「一歩引いた地点」から「私のことは置いておいて」書くことができるから、上述にような「キツさ」はない。

 

 もちろんそういった方法論は普遍性という観点からは絶対必要だろう。でも、その方法論だけではどり付けない、見えてこない分野があるんじゃないだろうか、と最近思う。

 

おわり

 

 

 

 

 

『十九歳の地図』中上健次、河出文庫

去年(2020)読んだ本。

今更ながら感想を投稿。

 

十九才の地図 (河出文庫)

十九才の地図 (河出文庫)

  • 作者:中上 健次
  • 発売日: 2015/01/07
  • メディア: 文庫
 

 

 一昨年(2019)の夏ころ、この作者の小説を2冊ほど本屋で買い、少し読んだ後積読していた。

その当時も僕は鬱屈とした気分の真っただ中におり、自分と同じ雰囲気を感じさせてくれる主人公が出てくる小説を好んで読んでいた。

 

この小説もそんな僕の好みの物だろうと思ったのだが、2年前の時は、「なんか違うな」となって途中で読むのをやめた。

 

今回も、卒論で相当憂鬱な気分にあったので再挑戦してみた。

まずまず面白く読めた。

 

四つの短編の内表題作と「蝸牛(かたつむり)」を読んだ。

「蝸牛」の方が好みだった。

 

「蝸牛」の主人公は30歳過ぎのヒモ。

バーで働くシングルマザーに養ってもらっている。

 

別にストーリ―が特別良いとかはなかったけど、ヒモという設定が面白いのと、主人公と主人公を養っている女の人の堕落した生活が良かった。

 

堕落した人を見て自分を慰めるのはあまり良くないとは思うけど、その対象が小説なら、まあいいんじゃないか、とか言い訳をしてみる。

 

「十九歳の地図」の主人公はいわいる「中二病」。

主人公は浪人生で、従業員用の寮に住みこみながら新聞配達をしている。

 

彼は、金持ちであったり、特に理由は無くても気に入らない家があると、地図上のその家に✖印をつけ、その家の住人に罰を与えるためイタズラ電話を掛けることを日課にしている。

 

僕はこの主人公の姿勢にあまり共感できなかった。

彼は、汚れた社会の中で自分だけが正義だと思っているのだろうが、たぶんそんなことはない。

 

浪人生で新聞配達のバイトをしている社会的に不安定な身分にある自分と、大きな家と地位を有した社会的に成功した大人たちを対比させて、自分だけは正しいのだと思おうとしているのかもしれないが、そこからはルサンチマン以上のものを感じられない。

 

彼(主人公)だって、社会的に成功できるチャンスがあるならきっとそのチャンスを死に物狂いでつかみに行くだろうし、一度権力の座を得たなら、その地位に安住することだろう。

 

と言って、僕は全く彼の気持ちが理解できないかというとそういうわけでもない。

むしろ同族嫌悪に近いところがある。

 

ただ、彼が今していることはあまり効果的ではないなと思っただけ。

彼のしていることは、結局は自分の身を滅ぼすだけなのでは、と思った。

 

彼は他者を糾弾することで、なにか自分が偉い存在になれると思っているのかもしれないが、現実問題そういうことにはならないだろう。

 

僕は最近、よっぽどのことが無い限り、他者への批判は自分にも当てはまるものだなと思っている。

 

誰かに対して「お前はモラルがなっていない!」と糾弾するとき、実は、そうやって糾弾している自分自身に、相手がどう思うのかという配慮が行き届いていない点で「モラルがなっていない!」という同じ批判が当てはまったりする。

 

聖人でないかぎり、たいていの批判は自分にも当てはまる。

 

「不正義」なんてのはその最たるものの一つで、主人公が金持ちのことを不正義であるとして糾弾するとき、見ず知らずの人の人生に傲慢にも口を出しているという意味で彼自身も「不正義」と言われてもおかしくない。

 

どれだけ正しいことを考えていても、他者を批判することでしかそれを表現できなければ、結局周りから疎まれて終わりなんじゃないかな、と思った。

それがこの世の悲しいところでもると思う。

 

おわり

 

勉強記録⑨ 2020 12/28~ 2021 1/3

2020.12/28(月)

卒論の半日。

13:00に作業を開始し、Youtubeを見ることと作業を半々くらいの割合で繰り返した。

19:30ころには「もうこれ以上できない」という状態になってしまい、もう一度作業をはじめられたのは2:00を回ってからだった。

 

12/29(火)

夜の21:30ころようや卒論のほぼ完成形みたいなのが完成したので、先輩に読んでもらうためにメールで送った。

SASUKEがテレビでやっていて、例年はそんなに見たくならないけど、今年に限って見たくなった。

メールを送った後、多少の達成感からか、SASUKEを最後まで見た。

 

12/30(水)

午前中、超久しぶりに会計士の講義をすこし視聴した。

昼からはゼミ。

それ以降は勉強らしい勉強はしていない。

 

12/31(木)

友人と会い、夜は紅白を見た。

 

2021

1/1(金)

初詣。

卒論を一応書けてから気分がどん底まで落ち込むことがなくなった。

 

1/2(土)

一年の振り返りでもしようと思っていたが、結局すぐに取り掛かれる勉強を少し下だけで終わってしまった。

 

・監査論 上級講義⑥(途中まで)

 

1/3(日)

ほぼ一日使って、去年の振り返りと今年の目標を立てた。

今年の目標を立てるにあたり、どのような形の目標にしようかと思い、ネットでたまたま見つけた、目標を100個立てるというのがなんとなく良いなと思いそれをしてみた。

30個くらいは割とすらすら出てきたけど、そこから結構時間かかった。

最後は気合で100個目標を立てた。

こうして年始にカッチリと目標を立てたことがなかったので良い兆候だ。

 

・監査論 上級講義⑥(終わりまで)

 

新年に入り、ToDoリストを作ることを始めた。

計画してそれ通りに動くことへの拒否反応を取り除いていかねば、という所存。

 

おわり

勉強記録⑧ 2020 12/21~27

12/21(月)

夕方、図書館にて2時間ほど作業。

図書館、というか大学自体には4時間ほど滞在したが、作業はそれほど捗らなかった。

 

12/22(火)

久しぶりに午前中作業ができた。1時間半ほど。

夜、19:30から3時間半ほど、スタバで一心不乱に作業。

その後、帰ることも少し考えたがこのまま作業しようとマックに行き2:00まで作業。

ここまで一心不乱にできることもなかなか無い。

家に帰ってきてからも作業しようとしたがさすがにできなかった。

なんか気が急いていたのか、寝られなかった。

 

12/23(水)

この日はゼミだった。

その準備で少し作業したくらい。

深夜、眠い中、中上健次の『十九歳の地図』を読んだ。

主人公は自分勝手だと思った。

 

12/24(木)

ネットカフェに14:30頃から19:00前まで居た。

それなりに集中して卒論を書けた。

小雨が降る中、1時間ほど自転車を押しながら歩いた。

たまにずっと同じことを考えたくなることがあるが、この日はそうだった。

歩きながらだと割と考えが捗る気がする。

あくまで気がするだけで実際文章にして紙に書いてみるとくだらないことであることが多い。

それでも良いと思っている。自己満で良い。

 

12/25(金)

大学に14:00から19:00前までいた。

他用事があったこともあり、作業時間は2時間ほど。

パソコンを見ている時間が長かった。

全然やる気にならなかった。

帰宅後はいつも通り作業できていない。

 

12/26(土)

午前2時間、午後2時間半ほど作業。

午後は、20:00過ぎまで何もできず、さすがに何もできなさすぎたので喫茶店へ。

はやく卒論から解放されたいという強い想いがある。

終わりが見えない。いや、見えてはいるけど、期限内に収めるのがきつそう。

最後に発狂レベルで頑張るしかなくなるのが目に見えている。

 

12/27(日)

この日と次の日、10時間ずつ作業して論文を書き上げてしまおう、みたいに前の晩考えていた。

そのためには午前中に2~3時間は作業したいな、なんて思っていた。

11:00起床。

昼過ぎ、ネットカフェに向かう。夜の9時くらいまではそこで作業しようと思っていた。この時点では。

作業を始めた時点で今日はなんか違うなと薄々感じ始めていた。

16:30頃完全に集中が切れたため帰宅。

とてつもなく気分が落ち込んでいたため、この日はこれ以上作業していない。

深夜久しぶりにランニングした。

 

・一日の内で怠惰に過ごしてしまった時間を計算すると、絶望的な気分になることは間違いない。

だからこそ、一日の内でやるべきことを先に決めておいたほうが良いのだろう。

数年間、欲深く生きてきて、ほとんど良いことはなく、ただただ怠惰な自分を見つけただけなので、あらかじめ決めたタスクを消化していくスタイルに乗り換えていきたい。

 

・家で勉強できない(集中できない)ことがとてつもないディスアドヴァンテージとなって降りかかってきている。喫茶店などは、長く居ても2時間くらいなので、5時間、6時間と作業時間を取ろうとするなら、やはり家での作業を出来るようになるべきだ。

 

おわり

 

 

 

 

 

『ツイッター哲学 別のしかたで』 千葉雅也 河出文庫

たまたまTSUTAYAに行き、たまたま手に取り少し読み面白かったので購入。

家に帰ってからその日の内に読み切ってしまった。面白い。

 

ツイッター哲学 別のしかたで (河出文庫)

ツイッター哲学 別のしかたで (河出文庫)

 

 この本は著者の千葉雅也氏のツイートを、自身で章ごとに並べたものだ。

サーっと読めてしまうけど、短時間で読んでしまうんがもったいないような内容だった。もっと吟味して読みたいような。でも元がツイートだけあって、さっと読んでしまうという贅沢な悩み。

 

率直な感想としては、分かりそうで分からない微妙なラインのツイートが多かった印象。でも、単に意味が分からないというよりは、「なんとなく分かりそうだけど、もっと深い含意がありそうだな」というタイプの分からなさ。

「これ意味分からん!もういいわ!」となる悪い方の意味の分からなさでなくて「もっと深く知れたらもっと楽しめるのに」という良い方の分からなさ。

 

ここでは印象に残っているツイート、真意はつかめていないがなぜか引っかかっているツイートをいくつか紹介しておく(太字箇所が引用箇所)。

 

「すぐ分解」p.73

困ったこと、気乗りしないことは対処可能な細かいアクションにすぐ分解すること。

 

これは言い古された格言だけど、何度自分に言い聞かせても足りないくらいの金言だ。大学教授という職業、それも哲学者となると、常人には思いもつかないような仕事のスタイルを持っているのかと考えたりするが、こういったいわば「基礎」を大切にされているという所に親近感が湧いた。

 

「遅延の劇」p.85

プロレスとは、男同士のセックスを回避し続ける遅延の劇に他ならない。

 

この本の中で一番印象に残っていると言っても過言でないツイート。

全体としてはなんとなくニュアンスは分かりそうなんだけど、よく意味を考えてみると良く分からない。

まず「男同士のセックス」と言うところに大きな疑問符ならびにエクスクラメーションマークが付いた。「遅延」ということは、その行為がゆくゆく行われることはもうすでに決まっているということだ。それは何を意味する?

そして、なぜその欲望が満たされることを「遅延」する必要があるのか気になった。

プロレスをそういった視点から見ることが可能ということ自体も驚きだった。

 

 

「男たちよ」p.179

誰かの美しさに魅了され恋さえしているときに君、男たちよ、自分自身の美しさをはっきり認識することの奇妙な恐ろしさから、他人に恋することで逃れようとしているのではないかと考えてみたまえ、そう、自分自身こそ法外に美しいのかもしれないのだ。

 

僕は男であり、「自分自身の美しさをはっきり認識」したことは無い。

 「男」という言葉、もしくはその概念には、「汗臭さ」とか「泥臭さ」とかもしくは性的な営みにおける精神的な「汚れ」などのある種の汚さ、「反ー美しさ」のイメージが付いて回りがちだ。そして僕も自分自身に対してそのようなイメージを多少なりとも抱いていた。だからこそ、このツイートにはハッとさせられた。

このツイートの「美しさ」は身体的な意味でも取れるし、精神的な意味でも取れるだろう。僕は最初、この「美しさ」を身体的な意味で理解した。

多分それも間違いではなくて、女性の身体の美しさに強く惹かれること、翻って自身の「美しくなさ」を嘆くことなかれ、というメッセージでもあるのかもしれない。

でも、このツイートの「美しさ」は精神的なものとしても理解可能 だと思う。

僕の勝手な解釈だけど、自分が汚れていることを意識し、それゆえに美しいものを求め恋をするその心理作用自体に、ある種の純粋さ、無垢さ、言ってみれば美しさ、が備わっているのかもしれない。

あと、「自分自身の美しさをはっきり認識することの奇妙な恐ろしさ」というのがあまりピンとこなかった。自分が美しい存在であることは喜ばしいことだと思うが、自分自身が欲望の対象になってしまう(つまりナルシシズムということか)と、世界がそれ以上広がっていかないから「恐ろしい」のかもしれない。

 

死の欲動p.179

スノボを観ると、人間は死のギリギリでなんとかコントロールし切るということに強烈な快感をもつのだなと改めて思う。フロイトの言う「死の欲動」(タナトゥス)というものは、自然科学的には根拠を調べようもないが、現実のいろんな現象においてどうやら働いているたしいと考えたほうが便利である。

※その後、危険なスポーツは、死に近づこうとしているのではなく、生の過剰な発露なのであり、結果的にたまたま死に至ることがあるだけだ、と思うようになった。

 

死と隣り合わせのスポーツやパフォーマンスを行う人は、「死のギリギリでなんとかコントロールし切る」ことに焦点を当てているのではなくて、あくまで「死」に近づくことに焦点を当てているのだと僕は思っている。まあ同じことなのかもしれないけど。

死の欲動」と「生の発露」は一見真逆のベクトルを持っていそうだけど、実際その現れ方は瓜二つであることが多い、という事実は面白いと思う。

なぜ安全な形で「生の発露」ができないのか、これは深い部分で僕の悩みにつながっているのかもしれないと思った。

 

 

 

勉強記録⑦ 2020 12/14~20

12/14(月)

12:00起床。

中島義道の本を読んでいた一日。

非常に苦しみながら生きている人であると思う。

そういう人と自分を重ね合わせて自分を慰めるのは不遜なことかもしれない。

卒論の作業は一切できなかった。

 

12/15(火)

12:30起床。

15:30~18:00にも昼寝。

夜少し論文を読んだ。

結論の部分がどうしても考え付かなくて苦しむ。

論文を読んでいても自分に言えることなど何もないということを確認するだけ。

「とりあえず」で良いという人もいるが、それすら今の自分はできない。

夜2時間ほど自転車で徘徊。

 

12/16(水)

13:00起床。

夕方2時間強、学校の図書館で論文を読んだりした。

そして、大学からゆっくり歩きながら帰宅。

歩きながらも卒論のことが頭から離れずしんどかった。

 

12/17(木)

12:30起床。

一日かかって文献を読んだ。

あまり集中できていなかったせいもあってか一章分読むので精一杯だった。

まあ、普通に18:00~21:00まで仮眠したのがデカいんだけど。

でも全く後悔はしていない。

気分がモヤモヤしていたり、ひどく落ち込んでいるときなどは、YouTubeとかSNSを観るのではなく寝るのが一番だ。

深夜、次の日のゼミで使う資料が一切作れていないことから発狂しそうになる。

結構絶望的な気分だった。

 

12/18(金)

13:00起床。

いろいろあって何とかなった。

卒論関係の作業は昼間に2、3時間ほど。

この日、夜また寝られずずっと起きていた。

深夜にコーヒーを飲んだせいで。

 

12/19(土)

早朝6:00にベッドに入ったにも関わらず9:30に目が覚めた。

たまにこういう日がある。

それでも11:30くらいはだらだしてしまい、さすがに何かしようと言うことでスタバに行った。

そこでだいたい2時間くらい論文を読んで、書くことを考えた。

この日の作業は以上。

夕方から用事。

ここの所卒論提出の期限がだんだん迫ってきていることを実感し、常に焦りと不安に支配されている。

でもこの日は、前日極端に睡眠が短いが故に妙な高いテンションで1日過ごした。

次の日反動で落ち込むのだろうな、と自分でも思った。

 

12/20(日)

11:00起床。頭の中がぼんやりしていてあまり何もする気になれなかったので、朝食後1時間ほどYouTube

昼少し用事。そのあと延々とピアノを弾いた。

17:30頃、さすがに何かした方が良いと思うものの、家にいては絶対に作業できないし、かといって外にいってまた帰ってくるのも違うな、みたいなことで葛藤が生じた。

ここ2か月ほど(もっと前からか)、この家or外関連の葛藤が多い。

ただ、こうして迷う時は、たいてい家にいて良い結果が出たためしがない。

もちろん外に行って後悔することも多々あるのだが、家にいる時の打率が低すぎるのでとりあえず外に出てみた。

1時間強自転車に乗ったり、降りて引きながら歩くをし続け、卒論の結論部分について考え続けた。

それで割といい感じにまとまってきたので喫茶店に入ってノートに詳細を書いた。

茶店に入る前の段階で割といい感じかもしれない、みたいな感触はあったが、実際そこまで悪くないと思う。

もちろん、学問的なレベルでいうとそこまで高くないだろうが(全然高くないことは自覚しているが、あえてちょっと自信ある、みたいに書いておく。自分が書いた論文を悪く言いすぎるのは逆に誠実でない気がするから。そして、あわよくば学問的にも程度の高い論文だと(教授や先輩方に)評価してほしいという気持ちが無いわけではないからこう書いておく)、なんとか形式的には卒論としての体を成せるくらいのものは書けるんじゃないだろうかという希望がもてた。

帰宅後は完全に緩んだ。

 

おわり

 

 

 

 

勉強記録⑥ 2020 12/7~13

12/7(月)

12時過ぎ起床。

13:00からも1時間半ほど仮眠。

16:00頃、ネットカフェ着。

次の日ゼミがあり、資料を作らないといけないのにほとんどできていなかったので、半泣きでパソコンに向かう。

この日も先週と同じく個室で作業をしたが、サッカーを観る暇もなく作業をした。

20:00過ぎまでいたが5割も終わらなかった。

帰宅後22:00から2時間ちょい作業。

それでも終わらず1:00過ぎから作業。その後は不安で寝られず結局6:30まで起きていた。

 

12/8(火)

11:30起床。

昼から授業。

夕方ゼミ。

深夜散歩。

 

12/9(水)

早朝起床。午前中からスタバにて卒論関係の本を熟読。

2時間半ほど集中して読む。英語の本なのでちょくちょくスマホを使って単語の意味を調べるが、ネットサーフィンをしてしまったりはほぼしなかった。

その後大学の図書館に向かい1時間ほど作業の続き。

この日の作業は以上。

 

12/10(木)

一日中寝ていた。

起きたのが13:00とか。

その後、14:00から16:00くらいまでまた寝ていた。

夜9時過ぎから2時間ほど歩き、電車に少し乗ったりしながら、考えるともなく卒論の内容について考えていた。

ノートやパソコンに向かうことなくあることについてボーっと考え続けていると、決まって気持ちが悪くなる。

考え事をするならノートやパソコンに向かいながらの方が良いとは思う。

けど、それはそれで堅苦しい感じがしてしまって。

じゃあどうすれば良いのか、という。

 

12/11(金)

夕方1時間ほど卒論関係の作業。

結局この日はこれ以外作業らしい作業はしていない。

ずっと頭の中には卒論の内容が浮かんでいて離れない。

夜22:00頃、眠いのでのようとするが寝られない。

机に向かう元気も体を動かす元気も無いのに、眠れもしない微妙な状態が一番ツライ。

 

11/12(土)

16:30頃から1時間ほど喫茶店で作業。

空腹により中断。

少し、いい考えが浮かんだな、などと思いながら帰宅。

ノートに書きながら確認して、その考えがあまり良いものでないことを知る。

少し落ち込む。

深夜2時から2時間ほど卒論についての考えをノートに書いたりした。

 

11/13(日)

この日は免許の更新にでも行こうと2、3日前から決めていた。

昨夜、結局一睡もできなかった(深夜2時頃にコーヒーを飲んだので当たり前)ので、そのまま寝ずに免許の更新に行くことにした。

15:00頃帰宅。その後爆睡。

この日は作業らしい作業は一切できず。

深夜散歩しながら考えるともなく卒論の内容について考えていたが、すぐにやめた。