『十九歳の地図』中上健次、河出文庫
去年(2020)読んだ本。
今更ながら感想を投稿。
一昨年(2019)の夏ころ、この作者の小説を2冊ほど本屋で買い、少し読んだ後積読していた。
その当時も僕は鬱屈とした気分の真っただ中におり、自分と同じ雰囲気を感じさせてくれる主人公が出てくる小説を好んで読んでいた。
この小説もそんな僕の好みの物だろうと思ったのだが、2年前の時は、「なんか違うな」となって途中で読むのをやめた。
今回も、卒論で相当憂鬱な気分にあったので再挑戦してみた。
まずまず面白く読めた。
四つの短編の内表題作と「蝸牛(かたつむり)」を読んだ。
「蝸牛」の方が好みだった。
「蝸牛」の主人公は30歳過ぎのヒモ。
バーで働くシングルマザーに養ってもらっている。
別にストーリ―が特別良いとかはなかったけど、ヒモという設定が面白いのと、主人公と主人公を養っている女の人の堕落した生活が良かった。
堕落した人を見て自分を慰めるのはあまり良くないとは思うけど、その対象が小説なら、まあいいんじゃないか、とか言い訳をしてみる。
「十九歳の地図」の主人公はいわいる「中二病」。
主人公は浪人生で、従業員用の寮に住みこみながら新聞配達をしている。
彼は、金持ちであったり、特に理由は無くても気に入らない家があると、地図上のその家に✖印をつけ、その家の住人に罰を与えるためイタズラ電話を掛けることを日課にしている。
僕はこの主人公の姿勢にあまり共感できなかった。
彼は、汚れた社会の中で自分だけが正義だと思っているのだろうが、たぶんそんなことはない。
浪人生で新聞配達のバイトをしている社会的に不安定な身分にある自分と、大きな家と地位を有した社会的に成功した大人たちを対比させて、自分だけは正しいのだと思おうとしているのかもしれないが、そこからはルサンチマン以上のものを感じられない。
彼(主人公)だって、社会的に成功できるチャンスがあるならきっとそのチャンスを死に物狂いでつかみに行くだろうし、一度権力の座を得たなら、その地位に安住することだろう。
と言って、僕は全く彼の気持ちが理解できないかというとそういうわけでもない。
むしろ同族嫌悪に近いところがある。
ただ、彼が今していることはあまり効果的ではないなと思っただけ。
彼のしていることは、結局は自分の身を滅ぼすだけなのでは、と思った。
彼は他者を糾弾することで、なにか自分が偉い存在になれると思っているのかもしれないが、現実問題そういうことにはならないだろう。
僕は最近、よっぽどのことが無い限り、他者への批判は自分にも当てはまるものだなと思っている。
誰かに対して「お前はモラルがなっていない!」と糾弾するとき、実は、そうやって糾弾している自分自身に、相手がどう思うのかという配慮が行き届いていない点で「モラルがなっていない!」という同じ批判が当てはまったりする。
聖人でないかぎり、たいていの批判は自分にも当てはまる。
「不正義」なんてのはその最たるものの一つで、主人公が金持ちのことを不正義であるとして糾弾するとき、見ず知らずの人の人生に傲慢にも口を出しているという意味で彼自身も「不正義」と言われてもおかしくない。
どれだけ正しいことを考えていても、他者を批判することでしかそれを表現できなければ、結局周りから疎まれて終わりなんじゃないかな、と思った。
それがこの世の悲しいところでもると思う。
おわり