三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

とにかく、書く

----2023年5月頃書いた----

 

題材はなんでもよいので、とにかく書く。

目標は5,000字ほど。適当。

 

昔の記事を読み返していると、こんなのがあった。

 

izunox.hatenablog.com

 

izunox.hatenablog.com

これを書いたのがだいたい2年前のことで、当時は、仕事もしていないのに将来経済的には何の役にも立たないであろう習い事(ピアノ)をしていることに気を病んでいた。技術的なレベルでいうとプロとは比べ物にならないくらい低くて、かつピアノを弾くことがとても好き、というわけではないのに、だらだらと習い事を続けてしまったことを恥ずかしく思っていたからこういう文章を書いた。ピアノは、技術的に伸ばしていこうとすると結構しっかり練習しないとダメだと思うけど、なんせダラダラ続けているだけだからそんなに伸びない。どうしようもないなあ、と思っていた。

 

どうしようもないな、と思っていた割には最後のほうは少し前向きなことを書いているのが面白い。結局人に見られるかもしれないというフィルターがかかっているから、真に恥ずかしい部分とかは見せられないからだな。もっと思っていることを書けばいいのに。というか、今書きたい。できるだけ本心に近い部分を。

 

ピアノに限らず楽器を演奏するときの、いちばんの障害は「自分よりも上手に演奏する人の目に、自分はどう映るのか」という意識だと思う。それこそ音大卒の人の前でクラシックなんて弾けたもんじゃない。そんな機会これまでなかったけど、考えただけで恐怖。

 

話を戻すと、「自分よりも能力の高い人に自分はどう映るか」という意識が邪魔をして、下手な演奏になることはよくあることだと思う。で、まあ、音楽的な技術なるものが存在することは否定しないのだけど、(趣味で)楽器を弾くにおいて結局一番大切なのは「その人が弾いているという事実」だと思う。

 

電子的に再現された(ミスが一つもないという意味で)完璧な演奏と、生身の人間(もちろんプロ)の演奏のどちらが良いのか、みたいな話があるけど、それは楽譜通り弾けることを突き詰めていったらロボットが最上じゃね?という話だと思う。たしかにそうで、ミスのない演奏を求めているならロボットに弾かせればいいのだ。でも、中には「ミスはするかもしれないけど人間が弾いている演奏を聴いたい」という人もいる。その判断は一見不合理なものに見えなくもなくて、あえて欠点の多いものを手に取ってる感がなくもない。で、おそらくその判断でも、結局は「その人が弾いていること」が人間の演奏を選んだ理由になっているのではないかな、と思う。

 

この「機械か人間か」という選択の場合でも、「人間」と言われたとき、具体的なピアニストが弾いている姿をイメージしていると思う。もしくは知り合いとか音楽の先生とか。もしくは自分がピアノを弾いているイメージか。いずれにしてもどのイメージにも具体的な誰かが登場するはずで、「人間の演奏する音楽」とその音楽を奏でる具体的な人間は不可分のように思える。逆に、演奏者の姿が想起されないような演奏、もしくは演奏者の姿を誰も意識しない場面では、その演奏は別に電子的に再現されたものであっても特段問題にならないし、特別注意深い聴き手でない場合以外、その音が誰(何)によって生みだされているかを気にしない。例えばバラエティのBGMで流れるピアノの演奏があったとして、それが生身の人間による演奏を録音したものであっても、ピアノの音を再現するソフトから出ている音であっても、たいていの視聴者にとってはどちらでもよいことだ。

 

バラエティのBGMの対局にあるのが、例えば恋人に曲を弾くとかだろう。まあ、明らかに、誰が弾くのかが重要。結局それが言いたいこと。

 

で、さすがに恋人の前で何かを弾く場面では、「その人であること」が重要な意味を持っているのは間違いないのだけど、趣味でやるピアノ全般にもこの話は当てはまるし、なんならプロのピアニストも同じかもしれないね、ということが言いたい。

 

ミスをしないことを「技術」と呼ぶなら*1、その最高到達点いるのは音楽再生ソフトになる。生身のピアニストはわずかでもミスをする可能性があるから、ミスをしないという観点ではどうやったって機械に勝てない。特殊な訓練を経ていない私たち「素人」は言わずもがな。皆、機械に頭を垂れないといけない?

 

今、意識的にプロと「素人」を同じ位置に置いた。機械に比べればどっちもミスをする可能性があるからね。プロの人すみません。あえてこのままプロと「素人」を同じくくりで書いていく。同じ人間として。

 

結局、だれかがピアノを弾いているとき、その演奏を聴きたいのは、それを弾いているのがその人だから、なんだと思う。ピアニストが演奏しているのを聴いて、それが初見であってもその人に引き付けられるとき、もうその瞬間に、そのピアニストの人間としての側面に思いを馳せているのでは?音楽を音として、音単体として受け取るということとは別に、否、音単体として受け取ることと不可分に、私たちは、その演奏者について受け取っているのでは?だから、もし誰かの演奏を聴き続けたいと思うとすれば、それは、音自体を受け取りたいのと同時に、その演奏者のなにかしらの「成分」を受け取りたいということなんだと思う。

 

プロのピアニストの演奏を聴いても、誰が演奏しているのか音だけでは全然わからない、とよく思う。でも、そのモヤモヤは普通で、視覚情報も含めて聞けばいいのだ。視覚情報もだし、できるならその人の来歴・経歴、さらにできるなら話し方の癖とか、匂いとか、考え方とか、そういった諸々の癖とか手触りみたいなもの、そういったものひっくるめてその人の演奏を聴きたいかどうか感じればよいのでは?と思う。

 

美人・イケメンだから聞きたい、も別にあり。視覚障碍者の人だから聞きたい、も別にあり。俺の彼女が弾いているから聞きたい、も当然あり。

 

ありっていうか、私はそういう理由でしか物を見ていないということ。そして、もしかしたら多くの人はそういう理由でしか物を見ていない。「~自体」、例えば「音自体」を受け取れることはそれはそれで楽しいことかもしれないけど、すべてまとめて聴くことも、それはそれで楽しい。

 

そういった視点を持つと、少々のタッチミス、少々でないタッチミスも、まあ、仕方ないか、と思えるようになる。嘘。一生自分のミスタッチについては情けなく感じるだろうけど、それでも、前よりかは苦しまずに済む余裕ができると思う。

 

ここまでは、生みだされた何か(音楽)をどう受け取るかについて書いたし、若干どう生み出すか、についても書いた。「生みだす」とか書くと大層。ただピアノを弾くことについて書いただけか。

 

ここからは、どちらかというと、客体ではなくて主体について書きたい。ピアノを聴く人ではなくて、演奏する側。読み手ではなくて書き手について。

 

視点が変わるけど、ほぼさっきまでと同じことを書くつもり。要は、客体(聴き手・読み手)に許されていいと(私が)思うメンタリティは「その人だから受け取りたい」。

で、主体(演奏者・書き手)に許されていいと思うメンタリティは「私がしているのだから満足」。

 

----現在2023年8月6日、加筆----

「とにかく、書く」と題している割にはちゃんと書いている。今の自分の基準、物事をどうするかの基準は、それをしていて苦しくないか、というものなのだ。上の話を、例えばピアノを弾くときに考えすぎるのは、どうかと思う。それくらい真剣に向き合っているのだ、といえるならそれでいいし、でも、ごちゃごちゃと考えた結果ピアノをひかなくなるなら考えないほうがマシな気がする。ピアノに限らず、自分が時間を使える(つ潰せる)ものを、「余計な」考えで手放したくない。「時間を潰せる」なんてこれまで言えなかったし、言いたくなかったが、時間を潰すしかないときには、時間を潰す方法は必要だ。自分の場合、時間を潰すしかない状況においてその方法が見つからずにずっと苦しかった。ずっと苦しかったしこれからもその状況は続いていくと思っている。死ぬまで時間を、何かしらをして埋めていく必要があるが、あまりに退屈なことだと続かない。また、体力や頭を使うことだと長時間は難しい。ちょうどよいものを探している。その「ちょうどよいもの」探し自体でも時間は使える。こうして文章を書くことなどは、「ちょうどよいもの」探しに当たるといっていい。

 

----現在2023年8月19(土)、さらに加筆----

昨日、ふと、なぜ文章を書くことが今の自分にとっては苦ではないのかを考えてみた。一つには、これまでのように言葉を選びすぎないようになったからというのがある。あと、それと似ているが、文章の整合性というか、前後で話の辻褄があっていないことを、以前ほど気にしなくなったから、というのがある。ただ、その2点は結果というか、文章を書き続けていることの理由とまでは言えない気がする。それらは、文章を書こうとしてノートなりパソコンなりに向かった後に、そこから離れるのを抑止するものであって、そもそもノートやパソコンに向かわせてくれる原動力になるものではない。性能の良いエンジンについての話ではなくて、障壁が無いことの説明、とでも言えばいいか。先週よりも文章が詰まるな。先週は「~だ」とかの書き方をしていなかっただろうか。たしか「~だ」と、他の砕けた表現を混ぜていたな。それでよい。気分のままでよい。いま文章を書いているのは、内に濃縮されている言葉を、とにかく排出したいという動機からだと思う。そう感じている。自分という人間の分身を作りたいからだ、という風に昨日は感じていた。今日は、排出をしたいから、というほうがしっくりくる。分身だと、結局この自分自身の「質量」は変わらないわけで、それならあまり意味はないように思う。この自分自身の「質量」を減らしたい。あまり、人にどう読まれるかを気にしていないときは、どんどん書けるということだろう。結局、いかに伝わるかを脇に置いているから、言葉選びも自分さえわかればよいというレベルで済む。分身ではない。ただ、単なる排出でもないように思う。自分の中に日々溜まっていってしまうモヤモヤを、一応形として残していく作業。これは単に生ごみを捨てるのとは違う気がする。でも、こうして文章を書く以外に、言葉・考え・思考・モヤモヤの捨て方は存在しない気もする。だから、これは単に捨てているだけとも言える。どっちでもいいか。人と話すことでモヤモヤを捨てることができる人もいるのだろうか。自分は、人と話すと、圧倒的にごみが溜まる。モヤモヤが溜まる。モヤモヤの大半は、生への前向きさに対してだろうか。人と話していたり、会社に行くと、生への前向きさを強要される機会が多く、ひたすらにモヤモヤが溜まる。モヤモヤでもないか。「生への前向きさを強要されることからくるしんどさ」だ。自分は、放っておくと、無限に「生への前向きさを強要されることからくるしんどさ」を内に溜めてしまうから、こうして排出している。排出・廃棄...「廃棄」は違うか。生に前向きになれないことを人に話すことは、空しい作業だと感じている。だから文章にすることになったのだと思う。自分は子供を持たないつもりだから、生きた証を残そうと(無意識的に)動いた結果が、この文章を書くという行為なのかもしれない、と昨日思った。もういいか。動機なんて。なんだっていい。オナニーするのに動機もなにもない。いや、動機を考えるのに飽きた。飽きたから次に行く。それだけ。

はたらきたくない、が脳内を占領している。相変わらず。でも、ここ数日は、はたらきたくない、と意識することが、さらに日々の労働をつらくするものだと思い、できるだけ意識しないようにしている。嘘だ。意識しないようにしよう、などと考えて意識しないようにできるわけがない。ただただ、職場で余裕がなさ過ぎて、追い詰められすぎて、他のことを考えることができなかっただけだ。職場でも余裕がないし、職場を離れても次の日の職場のことを考えて余裕がない。その結果、はたらきたくない、が意識にのぼる隙間さえない。時間的隙間。観念しかけている、というもの大きい。どうせ、はたらくしかない、という。

 段落を分けて書こうか。今分けているように。そのほうが読み返しはしやすいだろうし。それも気分だ。段落を分けるのも分けないのも気分。仮に結婚したとしても子供を持つ気がないので、それほど貯金は必要ではないと都合よく考えている。いつまでたっても「一人前の大人」にはなれないのだろう。結婚して子供を持っていないと。独身でいることに対して、年齢とともに感じることは増えていくのだろう。そんな気がする。働いていることで精神を病む、という事態が起きているのが変だと感じる。中学生くらいの頃から、「はたらくということは精神をすり減らしてするものなのだろう」という漠然としたイメージがあり、実際に働いている現在もそのイメージは変わらず、なんならそのイメージ通りの現実を生きているわけだけど、そもそもなんで労働で精神をすり減らすのか。自分が「客」の立場であるとき、例えば、飲食店に入ったとき、従業員には「それなり」のサービスを求める。食べ物に髪の毛が入っていないかとか、腐ったものを出されていないかとか。そのラインを満たしたうえで、味がそれなりに良いかも求める。例えば虫歯を治療するときは、まず痛みのない状態が長く続くことが最優先で、次に治療した歯の見た目が悪くならないことを気にする。電車に乗るときには、まず、脱線せずに目的地に着くことが最優先。時間通りにつくことはあまり求めていない。タクシーやバスも同じ。ひどい事故を起こさずに目的地についてくれれば、最低限のラインはクリアしている。最低ラインは、こういったところだ。最低ラインであり、最優先事項。家なら、まず崩壊しないこと。崩壊したら即死だろうか。即死できればまだいいものの、死にきれない場合、苦しい。衣服の最低ラインは、かなり低い。というより、実質、最低ラインが存在しない。糸がほつれて、最悪半裸状態になっても、他の店で新しい服を買えばよい。というわけで、本当に「大事」なのは生命を維持できるだけのモノとサービスで、それ以上は本来贅沢ということだと思う。今の自分の生活から考えると、スマホもコンビニで手に入る軽食類も、生命維持に直結してはいないが、手放せないものなので、それらも自分にとっては「大事」なものだ。でも、無理やりに生活の幅を狭めていけば、それらも必要がないといえる。というより、精神を病むくらいなら、それらを手放すのが、本来は「ふつう」だと考えられなくもない。

 

----2023年8月26(土)、さらに加筆----

 この話の行きつく先は、今の社会が要求してくる働き方を拒否するならば今の社会が提供してくれるモノ・サービスをあきらめられるか、という点のように思う。一番望ましいように思えのは、今求められているような労働が存在せず、今と同じ水準のモノ・サービスが手に入る世の中。SFみたいだ。書いていて空しくなる。実現可能性がかなり低いし、夢を見るとダメージが大きい。ベーシックインカムさえ導入されていないのにそのさらに先にある社会を夢見ている。だから、今は、労働をしてモノ・サービスを受け取る/労働をせずモノ・サービスを受け取らないのどちらかを選ぶことになる。否。より少ない労働をしてより少ないモノ・サービスを受け取る、というように段階で考える必要がある。

 

どうでもいいな。こんな話。くそどうでもいい。実際仕事に耐えられなければこんなこと考える間もなく仕事の量を減らして物を買う量も減るようになる。ぎりぎりまでこの社会の普通に耐えて限界を超えればそこから離れる、という生き方をこれからしていきそう。

 

おわり

*1:さっきから技術という言葉に「」をつけているのは、お分かりの通り音楽的な技術を、機械がどこまで再現できているのか、そもそも機械に再現できるものを私たちが「技術」と呼んでいるのか分からないから。楽譜に書いてあること、つまり、音の大きさ・高さ・リズム等を「完全に」(くどいが、この「完全に」が何を指すのかが難しい)再現できることを「技術が高い」と呼ぶなら、たしかに機械には音楽的な技術があることになる