三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

同じことができない気持ち悪さ

----2023年3月頃に書いていた文章----

 

毎日(毎週、毎月)同じ時間(曜日、日)に同じことをすることができない。

 

曜日ごとに筋トレのメニューを決めて、それを同じ時間に実行することができない。今日はスクワットをして、3日間やる気がでなくて体を動かさず、次の日ランニングをし、その次の日は腕立て伏せをする。1週間何もせず、次の日坂道ダッシュをする。そして、2日間スクワットをする。こういう状態で、5年間ほど経った。やっている量はすくないが、やめるわけでもない。かといって決まったメニューを実行することもしない。

 

ピアノの練習もそうで、2日間ポルノグラフィティの曲を弾いたかと思うと、1週間くらいピアノを弾かず、次はサザンの曲を弾き、次の日はハノンをちょこっと弾く。そうやって、十数年間経った。これも、弾くのをやめよう、とかはそこまで思わず、弾けるときに弾いている。技術的には、小学生か中学生くらいだろうか。意味ないか、技術レベルを云々するのは。いや、それも逃げか。どうしたらいい。ハノンとかソナチネとかは、毎日弾いたほうがいいだろうな、と大学入学以降思うようになって、21歳くらいの時は、それなりにハノンで指を動かしていた。その時でも、決まったメニューとかはなくて、その日やりたいことをしていた。そう思うとピアノに関して、自分で自分に決まったメニューを課すことができたためしがない。

 

サッカーの自主練は、それなりに決まったことをしていた。大学に入ってからの自主練は、ほぼシュート練習しかしていなかったから、別に「メニューを課していた」と言えるほどたいそうなものではない。シュート練習自体が好きで、そもそも「練習」」とも思っていなったので続いたのだと思う。これはポイントかもしれない。私は、シュートが好きで、というより、ある枠にボールを蹴るのが好きで、つまり「サッカー」という競技の中のプレーとしての「シュート」をはみ出した「ある枠にボールを蹴るという行為」が好きで、だから続いたのだと思う。「ある枠にボールを蹴ること」ならば、毎日同じ時間に(だいたい同じ時間だけ)続けられる気がする。ああ、でもそれも「同じ時間に」するのは無理かもしれない。でも、他よりは続けられそうな気がする。続けてやれそうなのはそれくらいか。「枠にボールを蹴る」こと。

 

今は自転車で通勤していて、行きは毎日同じ道を通るけど、帰りは同じ道を2日続けて通ることがほぼない、というくらいに毎日違う道を通って帰ってくる。前の日と大きくコースを変える(変わる)こともあるし、少し違う道を通ることもある。「通る」と言っても意識的に変えているのではなくて、気が付いたら違う道を通っている。

 

寝る時間も起きる時間も、結構日によって変わる。会社に行くようになってだいぶ波は小さくなったものの、起きる時間も寝る時間も、日によって1時間ほど変わる。休日は、2時間くらいブレる。でも大学生の頃に比べればだいぶブレが少なくなったな。

 

 

----現在2023年8月、続きを書く----

自分が決めたタイミングで、自分が決めたことをできる人に、憧れというかしんどさを感じる。落ち着かなさ、居心地の悪さを感じる。そういうタイプの人間が存在するということを耳にすると居心地の悪さを感じる。物事を継続して行える人間のほうが、この社会に適応していくだろうし、自分は「はじかれる」側の存在だな、と思うからだ。「負けているな」とも感じる。負けているのだろう、より継続して物事に取り組める人々に。勝ちか負けかでいうと負けだろう。おそらく死ぬまでこの体質は変わらないだろう。と、そんな気がしている。もう、この体質が変わらない前提で日々の生き方を考えたほうが良いという気がしている。体質を変える気で生活していて、また変われなかったと思うのがしんどいので。物事を継続できている人、というか、継続できている時、に共通することが何かありそうだ、という気にも、実はなっていたりする。いや、上の文章を読み直すまで全くなっていなかったのだけど、読み返しながら、何となくそんな気がしている。共通点とか、共通項とか、考えるだけでしんどい。どうせ漏れるものがあるから。大変だ。少し無理して共通点を探してみるとする。物事が継続できている時に共通しているのは、それをやっている時に無理をしていないということ。というか、それに尽きるか。元コンサルの勝間和代さんが、人間がある行為をし始めるかどうかの判断基準は、コストとリターンの大小でしかない、という話をしていて、その話はこの「継続」の話にも当てはまる。いや、ただ、そうするとYouTubeを見続けるくらいしか継続できることがなくなってしまう。あとはオナニーか。オナニーは継続できるな。ビジネス書で、物事を継続する例としてオナニーが挙げられていることはほぼないな。少なくとも自分はこれまで見たことがない。別にビジネス書に限らず、継続について語られるシーンでオナニーのことが言われるところを見たことがない。オナニーなんてやめたくてもやめられないくらいには継続できているな。中学生になるかならないくらいの頃から「継続」していることを考えると、かれこれ13年以上は続いている。ここで、「息をするのも継続している」とかは話が違うと思う。それをやらないと死ぬから(無意識的に)やっている度合いが高すぎる。オナニーは、呼吸よりは不要不急だ。物事の継続について考える時、大なり小なり、大なり小なり社会的な価値を生みそうな行為の継続について考えていることがわかる。それが継続について考えるとしんどい理由か。いや、違うな。やりたいことの継続について考えてもしんどいからな。とにかく物事を継続してやる、というのがしんどい。どうしようもない。実際の生活を考えるともう少しましなのだろうが、主観的にはそれくらい物事を継続することが苦手だ。自分を動物のように感じる。ただ、動物ほど目の前のことに集中できない。後先を考えるが、それが建設的な方向へは向かわず、不安と焦りだけが生まれる。先のことを考えて今すべきことをする、みたいなスタンスで生きられている人、すごい。そんな人存在しているか知らないが。ごくごく稀な気もする。どっちでもいいことだ。そんな人がいようがいまいが。物事を継続することについて考えるよりも、日々時間を何に使っていれば苦しまなくて済むのか、という方向で考えたほうが良いと思う。昨日夜に散歩しながらそんなことを思った。時間を何に使っていればしんどくないのか、という。「何をすれば楽しいのか」だと自分的にはかなりハードルが高い。「楽しむ」というのは、自分にとってはハードルが高い。何をしていてもそこまで楽しいと感じることがないので。いや、というよりも、楽しいかどうかを自問してしまうと、それを「楽しんでいる」と呼んでもよい状況であったとしても、「楽しんでいる」とは呼びたくなくなってくるから。「不幸せになりたい」みたいな心理状態似ている。だから、楽しいかどうかをあまり気にしたくない。それよりかは、苦しくない時間をどうすれば過ごせるかを考える。何をしていると苦しくないのか、を考える。まず、こんな風に目的もなく文章を書いている時はそれほど苦しくない。目的はないけど、だいたい過ぎ去った時間の分だけ文章が生まれている。時間がなにかしらの生産物になっているのがうれしい。おそらく目的がないのもポイント。なにかしらの生産物があっても、それが、売り物になるとかだと、苦しくなりそう。考えることが増えるので。だから、あまり頭を使わずに、好きなように文章を書いているのが、今は少し楽な時間の使い方、と言える。中高の部活にしても、自分にとっては、「少し楽な時間の使い方」程度のものだったのだろう、と今になっては思える。休みの日とか、放課後とか、部活がなければ何をしてよいかわからなかっただろうし。もちろん、ずっと部活をしていなければ、どこかの段階で、楽に過ごすための活動を見つけ出していた可能性もなくはないが。まあ、考えるだけ無駄なこと。とにかく今は、今の自分が少しでも楽に過ごすために何ができるかを考えることに集中。頭を使わない、がポイントなのかはわからない。でも、実際長時間何かに取り組もうとすると、あまり頭は使っていられない。仲のいい人となら長時間話していられる。ああいった会話では、あまり頭を使っていないのか。工夫とか、面倒。好きなようにしたい。ピアノの練習も、やりたいことだけをやりたいようにしたい。下手なままでもいいから気持ちよくピアノに触れていたいというのはある。というより、下手なままでもいいからピアノに触れている時間がストレスのある時間でなければいい。究極、ピアノが上手になりたいのは、ピアノに触れている時間がストレスフルでないようにするため、ともいえるかもしれない。質とかは、二次的な話なのかもしれない。自分にとっては。ただ、弾いているものが、あまりにも楽譜と違ったものになると、だんだんストレスが溜まってくるから、気持ち悪くならない程度には弾けるようになりたい。そう考えるともう少し楽だな。ピアノもそうだし、筋トレもそうだ。つまり、やること自体が目的。「オリンピックに出場すること自体が目的になってしまっている」みたいな批判があるが、自分は出場することだけを目指してもよいみたいだ。「出場」ですらないか。「オリンピックに出場できるかどうかさえ気にせずに、毎日練習する」みたいな感じか。「練習のための練習」という言葉を聞いたことがあって、試合を意識できてないダメな練習という意味で使われる。自分は、「練習のための練習を、(さらに)自分勝手にやってしまう」というのでなんとか日々を埋めていければと思う。