三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

甘いもの

最近の気づき。主に自分のことについて。考え方、感じ方の変化も含めて。

 

<甘いものをよく食べている>

一人暮らしを始めた。一人暮らしを始めるとわざわざお菓子を買いに行くのが面倒なので、お菓子を食べる機会が減ると聞いた。わざわざお菓子を買いに行っている。会社でも仕事しながら食べている。お菓子を食べてもいい会社なので。ストレスから、ひたすらガムを噛んでいるが、たまにチョコも食べる。ブラックサンダーとか。家ではコンビニで買ってきたかりんとうとか、何ていうんだろう、あれ、油で揚げたお菓子。砂糖がまぶしてある。食生活全般について言うと、健康にも、経済的にも、後先考えることなく食べたいものを食べている。ストレスが溜まっているので。明らかに腹部に脂肪がついた。人生で一番太っている。太っているのは嫌なのだが、仕方がないと感じている。だいたい朝には希死念慮がある。ここ数日はましだ。カップラーメンをよく食べている。一人暮らしをし始めてから1か月ほど経つが、お米を炊いたのは今日が2回目だ。

会社から帰ってきてシャワーを浴びてから寝て、また朝にもシャワーを浴びて出社していたが、ここ2週間ほどは疲れすぎて、夜にシャワーを浴びずにそのまま寝ていた。せめてもの反抗。「普通」への反抗。養老孟子さんが、個性なんてものは無理に伸ばさなくても、そもそも身体が皆それぞれ違うのだから、それが個性だ、というようなことを書いていた。なるほどな、と思ったが、それでも人と違っていたいという意識から自由になれない。人と同じように働いて、人と同じ時間に同じようなものを食べる。せめてもの抵抗として、夜シャワーを浴びない。シャワーを浴びるのが面倒なだけ?わかんないよな、本人にとっちゃ、面倒なことをしたくないから言い訳しているのか、人と違っていたいという風に切に思っていることの結果なのか。本人もわからないし、他人もわからない。どうしてこんな文章を書いているのか知らない。数人に読まれるのみの文章。でも、だれかに読まれるかもしれないという可能性があるだけで、すこし気が楽になるのも事実だ。思うに、自分の人生は、いわゆるアウトプットに相当するものが少なすぎた。痛い。どうしようもないことなので。どうしようもないと思う。自分を査定される機会は、どうしたって怖い。でも、その機会を増やすことが「成長」への近道らしい。痛い。籠っていたい。最近は、セックスについての考え方が変わってきた。これまでは、女性をセックスに誘うことは、女性を利用して自分が気持ちよくなろうとしていることのように思えて気が引けた。今はそのように考える必要もないというか、結局、女性も合意してことに臨んでいるわけで、その合意の上での行為でも、どちらかに非があると考えることは、どちらかを一人の人として見ていないことの現れなのでは、などと考えるようになった。そう考えるが、女性をセックスに誘う機会は皆無だ。思いつくことを思いつくままに書くのはかなり気持ちがいいことだ。自分は人よりも、食わず嫌いをして生きているのだろう、という感覚がある。ゲームを知人に勧められるが、まったくと言っていいほどやる気にならなかった。人と同じことをしていたくないので。NetFlixも同じ理由で、2年ほど前まで加入していなかった。ファッションに対して興味を持てなかったのも、結局人と同じような恰好をするようになるだろうことが嫌だったから。先ほどの養老さんの言葉に戻るが、今でも自分は、それぞれの身体がそれぞれ違うことをもって、それぞれが個性的だとは思えていない。自分は特別でありたいと切に願っている。そして、その欲望?希望?性癖?が何に起因しているのかあまりちゃんとわかっていない。人と同じような恰好をしていて何がダメなのか。今書いていて、実際何がダメなのかわからない。一つには自分の素のポテンシャルに、どうしようもない不満足感を抱いているからだろう。要は、イケていない自分が人と同じじゃどうしたってイケてる人に勝てない、という。「勝てない」って、なんの勝負をしているのかって話で、結局はいい女の取り合い勝負だと思う。じゃあ、自分は、いい女の取り合い勝負で負けないためにゲームもNetFlixもファッションも我慢してきたのか?そんな風に言葉にしてしまうと、目的のための行動としては妙な方向に行ってしまっている感が否めない。でも違うんだよな。自分の中では合理的な何かがある。自意識過剰さは、非合理的というか、はたから見ればなんでそこまで?ってことではあるが、その人にとっての合理性はある場合が多いのでは。わざわざどんな合理性があるのかを言葉にするのはそれはそれでキモイかもしれないし、面倒なのでこれ以上書かないつもり。いや、本人にとっての合理性とかどうでもいいのかもしれない。本人にとって合理性があろうがなかろうが、人からみれば魅力がないのだ。おそらく。というか、自意識の問題でもないな。自意識過剰でも人からみて魅力的ならなんでもよいのでは。結局、人と違っていたいという、そういう「孤高のおれ」的、自分の道を進んでいる的、社会の潮流には左右されない価値観を持っている系の、ものへのあこがれが、最終的にその姿勢が人からどうおもわれるかという観点に帰ってきている場合は、結構無理な姿勢になちがちなのでは。なんか面白いな。たぶん、「人と違っていたい」と言った時の「人」に評価してもらいたいと考えてしまっていることが問題、というかどうしようもなさの原因なのだろう。もっとシンプルでいいのだろうな。書き残しているけど、「ありのままの自分を愛して」的な願望と、人と違いたい願望は、近いところにある願望に思える。ありのままの自分。知識人っぽい人が嫌う言葉だ。知識人でなくとも、「社会」とうまくやっている人が結構嫌ってる言葉、という印象がある。「そんなもんねーよ」と言われがちな概念。「ありのままの自分」。あるとかないとかじゃない。ほしい、という。あってほしい、という。あってほしい、と願っているだけ。すがっていたい、という。「<甘いものをよく食べている>」だけで終わるな。項目分けた意味なし。

 

以上