三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

捨てる

昨日長文を投稿した後、「下書き」に入っていた文章を20個以上捨てた。

スッキリしたかったから。2年位前から下書き状態になっている文章があって、これまでにもたまに、その下書きに書き加えて投稿してたりしたけど、それをしているとキリがない。だから一旦全部捨てることにした。

 

「捨てることにした」と書くと、心の整理がついているみたいだけど、基本的に自分は物を捨てたくないと考えていて、今回も別になんとなくだ。物を捨てる時は毎回泣く泣く捨てている。

 

サッカーを10年ほどしていたためスパイク(靴)が溜まるのだけど、これを捨てるのに結構時間がかかった。5~6足ほどのスパイクを5年間ほど捨てられずにいた。この先おそらくそれらの靴を履く予定はなく、履くとしてもせいぜい2足あれば十分で、なんとなれば必要になったときにまた買えばいいのだけど、全然捨てようと思えなかった。

 

結局それらのスパイクを捨てたのも、母が何度も捨てろ捨てろと言ってきて、さすがにそれがうるさかったからだ。実家に住まわせてもらっている以上実家のルールに従うべきなのだろうな、と思って観念した。あと2か月で一人暮らしだ。それは素直にうれしい。

 

スパイクを捨ててみて、たしかに少しスッキリした気分もあったので、今回文章も捨ててみようと思えたのかもしれない。スッキリした、と書くとなんか違うな。捨てることのダメージが思ったより大きくなかった、と書いたほうが近い。スパイクを捨てるまでは、自分にとって大事な物を捨てると、それが後まで尾を引くのではと思っていたけど、実際はそこまでではなかった。

 

スパイクを捨てる時に、一足ずつスマホで写真を撮っておいたのがよかったのかもしれない。最悪その写真を見れば、思い出は甦る的な安心感。今のところスパイクを捨てなければよかった、とは一度も思っていない。というかそもそも日常生活の中で捨てたスパイクのことを思い出すことがほぼない。それもそれで寂しいな、と思いつつ、止まっていないかんじがしてうれしくもある。

 

本を捨てるのは、スパイクを捨てるよりもハードルが高い。まだ読んでいない本だと、なんで買ったんだと思ってしまうからだろう。というか、本を捨てるって、やっぱり他の物を捨てるのと話しが違う。

 

昔、学校の先生って、生徒が提出した大量の作文をどう処理しているんだろうと不思議に思ったことがあった。全部の作文を生徒に返却していたわけではなかったはずだから、ほとんどの作文は先生が捨てていたのだろう。慣れるんだろうな、作文を捨てるというのも。自分は、なかなか人の書いたものを捨てられる気がしない。いや、教師という仕事をするようになれば、これは仕事だからと割り切って捨てるしかないのだけど、モヤモヤは残るだろう。

 

「汲み尽くせていない」という感覚が残りやすいのだろうか。本とか作文は。そこに書かれていることを受け取り切っていない、まで受け取れる、という感覚。やはり、文章が書かれている物を捨てるというのは、大げさに言うと、その文章を書いたある時点の作者と、もう二度と会えないような感覚になる。

 

じゃあ、本を捨てるにあたって、例えば夏目漱石の本を一度捨てたとしてもまた買うことができるからそれでいいのか。上に書いたことからすると、捨ててもよさそうだけど、自分は抵抗がある。だから「それを書いた人と会えなくなる」という理由だけではない、自分が本を捨てられないのは。

 

もっと物質的なものにたいするこだわりとか執着がある。本の表紙の汚れ具合、本の横のいつもページをめくる部分がどれだけ汚れているか、色褪せ方...

 

これは結構性癖とかに近い部類の感覚なんだろうな。合理性を欠いているというか。アンティークの良さ、ともちょっと違うというか。自分自身アンティークを良いと感じる完成は持ち合わせていなくて、基本的に自分が使用したものの経年劣化に対してグッとくる。靴もそうだし、本もそうだし、ピアノの教則本、辞書、文房具もそうだ。

 

ノート(紙)を取るのが結構好きなのは、本と文房具の組み合わせが生じているからだろう。「板書を取るのが面倒」という感覚が自分にはほとんどなくて、少なくとも高校を卒業するまでは、先生の話はほとんど頭に残っていないが板書だけはちゃんととっている生徒、だった。*1数学とかはその最たるもので、見返しもしないのに、板書ノートを採取する、「自分の書いたもののコレクションを増やす」という気持ちで一行も漏らさず板書ノートを取っていた。やっぱりそれも、ノートを取る→数学ができるようになる、ことへの淡い期待がないわけではないから、文字を紙に書きつける行為のみを楽しんでいたのかというとそういうわけではなくて、多少なりともその先に実利的な利益を見込んではいる。そのバランスが必要なのかもしれないと思えてきた。その先に経済的・社会的な利益があるかも、と思うから何かの行為を必死に行うことができて、そうして必死で行った行為を保存している「ノート」という媒体は、だいたい面白い。大学の講義の時に使っていたノートのように、その先にわかりやすい利益がなく、かつ個人的な興味さえもその講義に見いだせないでいるときは、そのノートはつまらないものになってしまう。

 

一回切る

 

おわり

*1:大学に入ってからもノート(板書)はとっていたけど、高校の時よりも自分の考えなどを書くことが増えたのかな、と思う。いやそんなことないか。なんで高校の時よりも「板書を書いていて楽しかった」、という感覚が薄いのか。板書を取るよりもスマホを見ているほうが楽しいと感じたからだろうか。結局、その授業・講義に対しての熱量の問題な気がする。受験という目標があったときには必死で授業を理解しようとするから、その熱が板書ノートにも乗り移っていて、後から見返しても面白みがあるのだけど、大学の講義に関しては、特別目的意識がないから、「フワっと」書いてるというか、例えるならファミリーレストランにたまに置いてあるアンケートに答える時のような、その人の核の部分が全然出ていない筆致(筆跡?)になってしまう気がする。そういう「フワッと」した筆致で書かれたものは基本的に面白くない。筆致もそうだし、そういう筆致で書いた紙、ノートというものへの扱いって、だいたい雑になるわけで(アンケート用紙にコーヒーがこぼれても大して何も思わないけど、板書ノートとか日記にコーヒーがこぼれたら落ち込む)、どうしても無個性な汚れ方・傷つき方になる気がする。いや、もちろん雑に扱った時の汚れ方にも個性はあるのだけど、なんか違うのだよな。「雑に扱う」云々が問題ではないようなきもしてきた。問題は、その物を使っていた時間の長さ。