三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

この世界はゼロサムゲームか。もしそうだとすると自分の幸せは他人の不幸か。②

 前回の振り返り

 前回の記事では、ゼロサムゲームの定義が「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」であることを確認しました。

 そして、僕が考えていきたい問題が「この世界はゼロサムゲームか」というものであることも書きました、

 さらに僕がなぜこの問題を考えようと思ったのかを書きました。

 その中で、「競争が嫌なら公務員か窓際族にでもなればいいのか」という考えを検討することを通して、実は公務員も窓際族も間接的に「競争」には与しているため、競争から逃れることはできないとことについて触れました。

詳しくは↓の記事からどうぞ。

 

izunoxxx.com

 

「不可視の競争」の具体例

 前回の記事の最後の方で、現代社会に生きる人は「不可視の競争」に参加せざるを得ないと書きました。

 それはつまり、人々が競争とは意識していないものでも、実は競争の側面を有しているものがこの社会には無数にあり、人々はそれと知らずにその競争に参加しているといことです。

 

 公務員の枠を争うことも窓際族の枠を争う(?)は、もはや「不可視」でもないと思いますが、現代社会(有史以来そうなのかもしれないですがここでは一応現代社会としておきます)には文字通り「不可視の競争」があります。

 

「不可視の競争」具体例その1:国際レベルの競争

 例えば、遠い異国の地の農園で働いている人と、先進国に住み、彼らの作った農作物を消費する人々の間には、ある意味での競争があります。

 農作物を輸出することで、多少その国が潤うとか、農場で働くことができるからそこにいる人はなんとか食べていけるとか、先進国で暮らすのと後進国のそのような農場で働くのとどちらが幸福か分からないなど、あるかもしれませんが、控えめに言っても「搾取」の構造は存在するように思われます。

 

 そして、先進国が後進国を「搾取」できているのは、歴史のある時点(例えば帝国時代?)にその国を植民地にしていた名残だとか、その国よりも工業化、経済の発展が早かったとか、いずれにしてもなんらかの競争が存在していて、その競争に勝ったからだと言えます(競争における力関係がひっくり変えてってしまわないように先進国は気を付けているかもしれません)。

 

 そして、現代の先進国(ここでは「先進国」としていますが、後進国が先進国を「搾取」する領域・分野もあるかもしれないしそのことは承知の上で話を簡単にするために一般化しています)に住む人々は、その「戦果」を日々享受していると言えます。

 この社会をグルグルと循環している富の源泉において「搾取」があるとすれば、その富を消費して生活する人は、知らず知らずのうちにその「搾取」の成果(=「戦果」)に与っていることになります。

 このことをもって、先進国の人間は「不可視の競争」に勝っていると言えるでしょう。

 

 「不可視の競争」はもちろん国際関係に限った話ではありません。

 個人と個人のあいだでも「競争」の図式はいたるところで見ることができます。

 

「不可視の競争」具体例その2:美容整形

 例えば、美容整形。

 ある人が二重になる整形手術をしたとします。その行為は、見た目競争(この例でいうと異性獲得競争)で少しでも順位を上げる行為であると言えます。そう解釈することは当然可能なはずです。

 ある人が二重手術をしたことによる効果は波紋のように社会全体に波及していきます。

 二重手術をした人に対しての周囲の反応(特に異性の反応をここでは想定してみると話が分かりやすい)が良くなったのなら、「私も二重手術をしたい」と思う人は増えるでしょう。今まで美容整形のことを意識もしたことのなかった人も、少しは手術のことを意識し始めるかもしれません。

 そして、「知人の二重手術に影響を受けた人に影響を受ける人」が出始め、以後理論的にはその行為(二重手術)が競争(異性獲得競争)にとって有用でなくなるまで、つまり、誰もが二重手術をして二重であることの価値が落ちてしまうか、もしくはそもそも二重より一重の方が美的に価値があるとされる世の中になるまでその波紋は続きます。

 

 

「不可視の競争」具体例その3:広告業界

 もはや「不可視」ではないですが、あまりにありふれていて普段人々が意識しない分野における競争の例をもう一つ。

 例えば、広告業界においての、「人々の可処分時間」の奪い合い。

 昨今、広告の業態は多種多様になっています。

 例えばテレビ・新聞・TwitterInstagramYouTube・さらにビルや電車・バスにポスターを貼るタイプの広告など、もはや人の視線の集まる所には絶対と言っていいほどに広告があります。

 そして、それらの広告を貼る広告主は常に一つのことを考えています。

 ズバリ、人々の視線をどれだけ長く自分の広告にとどめておくかです。

 テレビでもYouTubeでも、広告主(ここではテレビやYouTubeにお金を出して自分の広告をそのプラットフォームに載せてもらっている人達を指す)が一番に考えているのは、テレビやYouTubeの内容が面白いか否かではなくて、自分の広告をどれだけ多くの人がどれだけ長い時間見てくれるかです。

 つまり、広告業界では、人々の視線、言い換えると「何かを見る時間」を奪い合う競争が日夜繰り広げられているのです。

 

 これからますます高度な技術が出現して、人々の労働時間が減り(自由時間が増え)、先ほど挙げたTwitterYouTube・テレビ・新聞などに使える時間がこれまで以上に増えたとしても、それでもその時間の総和は有限です。

 仮に、人々が仕事中であったとしても、彼らの「視線を盗む」ことを広告業界がしてみせたとしても、それでも人一人の可処分時間は24時間を超えることはありません。

 つまりは、(最大値で)「世界の総人口×24(時間)」を全広告業界が取り合っているのです。

 そしてさらに、広告業界は「人々の時間・資金を取り合う」という意味においては、他のありとあらゆる業界と競合である(一部からは恩恵を受けてもいるでしょうが)ともいえます。

 

 このように、競争は、個人レベル・企業レベル・国レベルと、どのレベルにも存在しています。

 そして、さらにミクロな視点で物事を見ても、逆にマクロな視点で物事を見ても、そこには競争と呼べるものが存在していることに気がつきます。

 

「不可視の競争」具体例その4:人体vs「X」

 ミクロな視点で言うと、例えば人体とウイルス、細菌との闘いがあります。

 人の体には、外から来た有害なウイルスや細菌を排除するための免疫システムが備わっています。そのシステムが犯されたとき、人は病気になります。

 人は普段「あー、今、キラーT細胞が闘ってるわ~」などと考えたりしません。考えはしませんが、生理学的反応を介して、無意識のレベルで侵入者を打ち負かし続けていると言えます。

 

 この例は一人の人間vsウイルス・細菌ですが、この現象をマクロな視点で人類vsウイルス・細菌として見ることもできます。これが先ほど述べた「よりマクロな視点で物事を見た」場合の競争に該当します。

 

 コロナウイルスが蔓延するずっと前から、人類はウイルス・細菌との闘いを続けてきました。ウイルスや細菌に、「人類を滅ぼす」という意志は無いでしょうが、実際に起こっていること、起こってきたことは、人類とウイルス・細菌との生存競争以外の何物でもありません。

 

 もう少し「人類vsX」という枠組みで考えてみましょう。

 

 現在人類は、地球上の動物(深海・ジャングルを除く)をほぼ完全に支配しています。もしくは支配しようと思えばそうできる状態にあります。

 

 では、地球の生命体とはどのような関係にあるのでしょう。

  現時点では地球外生命体の生存は確認されていないようですが、潜在的な生存競争の相手が宇宙空間には無数に存在しているだろうとは考えてもよさそうです。

 

 少し話が大きくなりすぎた感が否めなくもないですが、ここまでで、いかにこの世界が競争で満ち溢れているか、もっというと競争が無い「隙間」など存在しないことが分かっていただけたことと思います。

 

 人が一人いるだけで、その身体の中では無数の細胞が無数の侵入者と攻防を繰り広げています。

 体の表面においても、皮膚は、人間の生体システムを脅かす可能性のあるモノを常時排除しています。

 生物一個の個体のレベルを離れ、社会のレベルまでスコープを広げると、そこには周囲の人との間、学校や企業間、国と国の間、もしくはより広く「種と種」、「ある(惑)星と星」の間でさえ絶え間なく「競争」が行われているのです。

 

 次の記事では、もう一度ゼロサムゲームの定義「複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況」に立ち戻って、上で確認した事例は、ゼロサムゲームと言えるのか否か、ゼロサムゲームだとしたら何が言えるのか、もしゼロサムゲームでないとしたら何なのかを考えたいと思います。

 

続く