読書ノート 『わたしを離さないで」/カズオ・イシグロ(著)
(ネタばれ注意)
そういえばカズオ・イシグロ読んでないなという軽いノリで読んだ一冊。
SFのおすすめか何かに載っていて、SFとは思ってなかったからその点も気になって読んだ。
舞台はたしかイギリスで、少し前の時代、1990年ごろだったはず。
遠い異国の、しかもかなり特殊な状況な設定だけど、不自然さはなくスッと入っていける。
終盤に差し掛かってずっと、臓器を提供するという目的だけのために生まれてくるとはどんな気持ちなんだろう、と考えてた。
「自分が臓器提供のために生まれてきたと知り、自暴自棄になる・暴れる」みたいな描写は無かったような気がするけど、自分だったらまず間違いなくおかしくなるな。
臓器提供のために生まれた子たちは不憫だなって思った。
でも、「臓器提供以外の目的がない」って言っても、こっちは臓器提供っていう目的すらないぞ、ってことに気づいてから、憐れんでばかりのいられないなってなった。
臓器を提供するためだけに生きるっていうのは、むなしいけれど、特に何の目的もなく生きることとどちらがむなしいかって聞かれると、そこまでかわらないかもって思ってしまう。
日本に生まれて、法律の範囲内では好きなように生きられるのに、その人の自由で無目的に生きるのと、最初から臓器提供のために生きなければいけない人をひとくくりにするのはやりすぎ感もある。でもここで言いたいのは大きく分けると別に大差ないなってこと。
自分が「提供者」だったら、そうでない人を見て、羨ましいと感じるだろうけど、現に「提供者」でない自分は羨ましがられるほど自分の生の条件をありがたがってない。
うまいこと書けないな。
そりゃ「提供者」かそうでないかの二択を選べって言われたら、そうでないほうを選ぶけど、究極的な目的なんて誰しも持てないんだからどうせおんなじじゃないのとかと思ってしまう。
究極の目的、つまり、「世界平和のために生きる」、とか「オリンピックで金メダルとる」とか「数学界に多大なる貢献をしてフィールズ賞をもらう」とかのために生きられる人ってごく一部。
その恵まれたごく一部とそれ以外の人間との差ってすさまじい差、隔たりがあると思う。「提供者」と自分含めた一般人との距離よりも、自分とそのごく一部との距離のほうが大きく感じる。
だから「提供者」ばかり可哀そうって言ってなれないなって。
「一般人も(実存的な意味では)十分悲惨ですよ」ってカズオ・イシグロに言われてる気がした。