三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

世界との「引っ掛かり」が必要

少し前の記事で現代社が「モチベーションの時代」であることに軽く触れた。

 

 
izunox.hatenablog.com

 


この世界はいつの時代も意欲の無い者には厳しいものだっただろうけど、モチベーションの有無以外の要素が均一化されつつある現代においては、モチベーションの有無がその人の「成功」にクリティカルな意味を持つ。

 その意味合いで僕は現代を「モチベーションの時代」と名付けた。

 この記事で書くのは「モチベーションの時代」に生きる中で僕が感じている虚無感が何に起因するものなのかについてだ。

 その説明の中で、僕が二十数年間生きるなかで構築してきた世界理解みたいなものも紹介できればと思う。

 

僕は大学に入学して以降ことあるごとに虚無感を抱くようになった。

 最初はその感情が虚無感と呼ばれるものだとは分からなかったし、今も確信はないけど、「胸の中が空っぽ」という表現がシックリくるから、これが虚無感なんだろうなと思っている。

 この感情を持ち始めたのは大学に入学してすぐの頃だった。

 受験が終わり、いわいる燃え尽き症候群になっていたのだろう。

講義を受けたりバイトをしたり課外活動をしたりしても、心の中が「空っぽ」だった。

 それは今も変わらないし、ここ数年でその空虚さはどんどんひどくなっている。

 

そして自分の虚無感の原因をいろいろ考えてみて、何かしらの「引っ掛かり」が欠けている人は空虚感に襲われるのだろうなという考えに至った。

 

「引っ掛かり」というのは「強制力」と言ってもいいと思うし「強い意志」と言ってもいいかもしれない。とにかくこの世界において人々に進む方向と推進力を与えるものを「引っ掛かり」と呼びたい。

 

 なぜこの「引っ掛かり」が必要なのかと言うと、それはこの世界がある意味「のっぺらぼう」になっていて、何らかのきっかけや指針が無いと人はどこに進んでいいか分からないしどこかへ進んでいこうという意欲もわかないからだ。

 

「世界がのっぺらぼうである」とは、つまり万人が認める究極の正しさ・善さが無いということだ。究極的な「生きる意味」を求めてもこの世界にはそのようなものは何処にも置いてはいない。

 

 あくまでこの世界は無色透明でのっぺりした世界だ。

 

 その世界に起伏を見出してどこかに「ゴール」を設定できはするけど、かといってそれは「究極の」ゴールではなくて、現在生きている多くの人が目指しているゴールか自分が勝手に目指しているゴールかのどちらかだろう。

 

 そして社会が規定したゴールであったとしても、自分が決めたゴールであったとしても、人々はそのゴールにたどり着いてなお「だから何なんだ」と問うことができてしまう。

 

現代思想みたいなものに僕は特別詳しいわけではないから詳しいことは分からないけど、近代的な科学観と自由主義の浸透が人々を「自由」にした一方で人々から精神的な拠り所を奪ったということはある程度確かなことだと思っている。

 

 近代的な科学観いうのは端的にいうと科学万能主義とでも言えばいい考え方で、自然はいつかは人間にとって究めつくされるだろうし、少なくともそれまでには自然はコントロール可能なものになっているだという観測がこの主義主張には含まれている。

 

 近代的な科学観は現代人の多くの人が無意識に信仰している宗教のようなもので、結果的に現代を生きる人は素朴に「神」や「あの世」や「運命」の存在を信じることができなくなっている。

 

 近代的な科学観が僕らを自由にしたというのは、その科学観から生まれた種々の技術が人々にそれまでできなかったあらゆることを経験可能にしたという意味だ。

 

 一方で、近代的な科学観はそれまで人々が素朴に信じることができていた「神」や「あの世」や「運命」の存在に疑問を生じさせた。

 

 近世ヨーロッパで起こった戦争、革命の多くが宗教的な問題に(少なくとも建前だけでも)起因していることからもともと宗教的信仰が人々の人生観に深く影響を与えていたと言えよう。

 

 その点で多くの現代人にとっての「神」や「あの世」はお墓参り・初詣・クリスマスのような行事の中に形式的に残っているものであり、近代科学の発展以前のように素朴にその存在を信じることのできる対象ではなくなっていると言えるのではないだろうか。

 

 そして、「神」や「あの世」などの超越的な存在を素朴に信じられなくなった人々は、善悪の絶対的な基準を失ってしまい生きていく指針を失った。

 

上記の「(科学の発展が)人々から精神的な拠り所を奪った」が意味するのはこのような事態のことだ。僕はこんな風に現代という時代を捉えている。

 

 そして、このような「のっぺらぼう」な世界、つまり同時代の人々の間でさえ共通のゴールが共有されておらず、各人が設定するゴールがそれぞれ相対化されてしまった世界に生きている人々にはできるだけ大きな世界との「引っ掛かり」が必要になる。

 

 つるつるすべすべとした世界、「どれでもいいんじゃない?」「良いも悪いも人それぞれじゃん」が合言葉のこの時代において、人は妄執でも何でもいいから方向性を求める。

 

そんな時に世界との「引っ掛かり」があると便利だ。それが良いことかどうかは別にして、人に方向性を与えてくれる。

 

例えば、医者の両親に幼いころから医者になるように言われてきたAさんがいるとする。

 

 両親の思いが強ければ強いほどAさんは進路選択においてその「自分は医者になるべきだ」という世界との引っ掛かりを軸に物事を考えていくことになる。

 

 Aさんが親の意向に従い医学の道を志す(目標の受容)としても、またはAさんが親に反発し他の道に進む(反発)としても、その選択は「医学の道に進むべき」という所与(すでに与えられている)「引っ掛かり」への反応あってのことだ。

 

この例とは逆のパターンを考えてみたい。

 

Bさんは幼いころから両親に「好きに生きていいよ」といわれて育った。

 

Bさんは成績も平均、運動神経もずば抜けて良いわけではないが特に悪いというわけではない。特別モテるというわけでもなく、これといった趣味もない。

 

また、Bさんの家庭は特別裕福というわけではないにしてもBさんが大学進学・下宿をするくらいの余裕はある。

 

Aさんにあって、Bさんに欠けている物が僕の表現したい「世界との引っ掛かり」だ。

 

 Bさんが今後進路選択をする際に、顧慮する材料は(こんな風に単純化された世界においては)偏差値であったり、家の経済状況、本人の好みとなってくる。

 

そして実際Bさんには進路を決めるほど決定的な好みはなく、できるだけ「良い学校」に行きたいというような消極的な望みしかない。

 

 そのような状況においてBさんの進路選択を決定するのに役立ちそうなものは、せいぜい偏差値か、家の経済状況だろう。

 

 Bさんの家の経済状態いかんによっては、Bさんの進路選択が大幅に制限されるのは事実だ。

 

この点に関して言うと、 この想定にあるように家がそれなりの経済力を有している場合、進路選択は依然としてBさんの意志に委ねられることになる。

 

 もちろん経済的理由のために進路選択の幅が狭まることは本人の意志を最大限尊重できなくなるという点で望ましいことではない。

 

 しかし、その一方で経済的に恵まれているがゆえに「選択を何にも制限されないことからくる葛藤」が生まれやすくなる、とう点も確かにあると思われる。

 

 今日食べるものに困る人は余計な事を考えずに目の前の事に集中するしかない。

他方、物質的に恵まれている人にとっては、今日という一日を何をして過ごそうかということが悩みの種になっているかもしれない。

 

ここで書きたかったのは、煎じ詰めればこういった物質的・時間的、その他もろもろの余裕がもたらす逆説的な葛藤、悩みのことだ。

 

そして、すぐ上の例で言うと、食べ物に困っている人にとっての「世界との引っ掛かり」は「飢え」であることはすでに了解されていることと思う。

 

結局、僕の書きたかった事は物資的・時間的余裕が逆説的に人々を不自由にする、ということだろう。

 

おそらく物質的・時間的に余裕の無い人(過去の時代の人の目には現代人は物質的に恵まれているように映るだろう)はそれらに恵まれた人の生活はより良いものとして映るだろう。

 

しかし、実際には選択の幅が広がることからくる苦しみもあるのだと思う。

 

選択肢が増えることによる逆説的な苦しみの存在を分かったうえで、自らその選択の幅を広げる努力をする、そして自分の意志で選びとっていくことは僕は素晴らしいことだと思う。

 

その一方で、あえて選択の場から身を引く、つまりこれまで正しいとされてきたこと、親・教師が良いと言っていること、自分ができそうな範囲の事に集中すること、もまた大切なことと思う。

 

要は「引っ掛かり」の存在を意識してそれを利用するのか、それとも「引っ掛かり」の無い(少ない)世界で自分で「引っ掛かり」を意図的に作るのかの違いであって、その「引っ掛かり」が人から与えられたものであっても、自分で作ったものであっても、自分でそのことが分かっているならそれで良いのだと思う。

 

だから、「それはあなたの本当にやりたいことなのですか?」みたいな文句に乗せられて自分の今やっている事を安っぽいことだなどと思う必要はないと思う。

親から言われてそれをしている場合でも、本人にその自覚があればそれでいいのだろう。

 

長くなってしまったのでこの辺りで一度締めておく。

多分僕が書いている事は広い意味でのニヒリズムと関係してくることと思われるのでそのあたりの勉強も進めたい。

卒論を書いていた頃に自分がどんなことを書いていたのか、あとで読み返した時に分かると助かる。

(メモ)

下の本にはここで書いたようなことがチラッと載っていたと思う。

後で見直すべし。

 

 

おわり