微妙なニュアンスをたのしむ
昔書いた文章の感想を自分で書くのは面白い。
やっぱり、すでにあるもの(今だと自分が昔書いた文章)に対して何かしら言う方が楽でいい。
今は資格試験が終わり、とにかくなんでもいいから吐き出したいから、昔の下書きがたくさん残っていてありがたい。
下の文章は、今年の9月頃に書いていたもの。
(以外、2021.Sep頃に書いていたもの)
14日ほど前から、勉強時間を測らないようにしている。
理由は、「今日は~時間しかできてない」と、勉強時間ばかり意識して生活するのが嫌になったし、勉強時間ばかり気にするのは資格試験を進める上で、本質的な作業ではないと思ったからだ。
理想的なのは、1日10時間とかそれ以上勉強して、かつその中身も濃いパターン。要は質も量も備えているという。
僕の場合、質と量の両方を同時に改善していくのが難しそうだったから、とりあえず質を重視しようということで、ひとまず時間を測ることをやめてみた。
半年前くらい前は、時間を測らずにいて、さすがに量がこなせてなさすぎるからと、時間を測ることにした。
つまり、この半年ちょっとの間で、「測らない」→「測る」→「測らない」
・9月5日
今日はラインマーカーの使い方についても、思い込みがあるかもしれないと気がついた。
マーカーは何色も引かない方がいい。何色も色分けしても、見づらくなるだけだ。という思いこみがあったが、必ずしもそうとは言えないだろう。
(以上2021.Sepに書いた文章)
タイトルが「微妙なニュアンスを楽しむ」になっていることから、当時、退屈に感じる資格試験の勉強にどう楽しみを見出そうかと考えていたことが伺われる。
「楽しみ」と言っても自分にとっては死活問題で、それは今も変わらない。
学校での勉強から、会社での労働。
毎日同じことの繰り返し。
こんな風に考えているので、この先の人生しんどいなぁ、みたいによく思う。
でも、上の文章を書いた時くらいから「自分の現実認識が粗すぎやしないか」と思い始めた。
「毎日同じことの繰り返し」って言ってもちょっとは違うだろう、と。
同じ先生の講義でも、毎回内容は違うわけで、それは「微妙」ですら無い変化だけど、同じ「講義」という名前のもと、一括りにして、あまりにもさーっと目の前を流れさせてしまっていないかと。
そもそも「同じ」とか「違う」とか、相対的なものでしかないな、と思い始めた。
いや、揺れている。ずっと揺れている。
「とはいえ、退屈なものは退屈やろう」ともよく思う。
ただ、これまでは「揺れ」てすらいなくて、「ずっとこのまま同じことの繰り返しやん」としか思ってなかったから、“視野が広がった“と思っていいだろうか(「視野が広がった」と書くのは不本意。他が思いつかないのでこの言葉でいく。便利な言葉なので)。
何かをするときに、“本当に“自分が選んだものではない、という意識がどこかにあると、「好きになるしかないから好きになってるだけやん」と思ってしまう。
人生も、その始まりが「自分で選んだものではない」から、「好きになるしかないから好きになる」しかないものだと思う。
別に、好きにならなくてもいいけど、好きになった方が得だから好きになった方がいい、という点で同じ。
だから、今取り組もうとしているものが“本当に“自分が選んだものかどうかは置いておいて(というより、その問題に苦しみ続けながらも)その対象の小さな変化を楽しめるようになればいいな、と思う。
もちろん、嫌いなままでも取り組める人はそれでいいと思う。自分はそうではないかもしれないので、好きな部分を見つけないと付き合い続けられない。
終わり