三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

不安なこと① 人前で話をすること

今日、バイトの帰り道、唐突に、「不安なこととか心配なことをブログに書き続けよう」と思った。理由は、どこかに吐き出さないと、ずっと頭の中で不安や心配がグルグルと回るから。ここ数年、紙のノートに書いたりしてきたけど、人の目に触れるかもしれないという多少の緊張感があった方が、より継続しやすいと考えて、こちらでも書く。

 

何個くらい書けるか分からないけど、できるだけ毎日書きたい。思いついたことを出来るだけそのまま書いていく。恨みつらみはできるだけ書かない。誰かを攻撃したいとかも全くないので、そういう内容も書かない。ネガティブになりすぎないようにはしたいけど、思っていることをありのままに書くことを優先する。

 

一旦下書きに置いて、次の日また続きを書くとかしていると公開できなくなるので、書き始めたらどれだけ短くてもその日のうちに、と言うより、そのアクセスの内に公開までしたい。それくらい軽く書く。

 

本題。

 

人前で話すのは苦手。講演会とか、もし自分が有名人でも、難しいだろう。自分の言っていること、書いていることが、常に査定されている感じがしている。つまり、話していることが、論理的に破綻していないか、がすごく気になる。論理的に破綻していることだけを恐れているのではなく、他にも、論理的には破綻していないがレベルの低いことを言っているのではないか、というのも気になる。ここまで、無意識的に、大学の講義などにおいて、何かしらの発表をする場面を想定して書いている。でも、大学だけでなく、高校・中学においても、私は、人前で話すのが好きではなかった。ただ、歳を重ねるごとに、不安感は強くなっている気がする。

 

中学・高校の時は、聞き手がどんな人間かよくわかっていた。大学の講義の場合、聞き手、つまり、教授や他の学生とはあまり面識がなく、彼らが私の発言に対して、どのような印象を持つのか想像がしにくかった。そういったことも、不安感が強くなった原因の一つかもしれない。ただ、高校の時、他の生徒の前で英文の暗唱をしたことがあったが、あれは、すさまじく緊張した。1週間くらいまえから憂鬱だった。だから、おそらく、聞き手が抱く印象を想像できないことだけが問題でもなくて、私自身が、その発表内容に対して自信があるのか、ということも大きいのだと思う。

 

中・高と、現代文の時間の、「音読」で、緊張したことや不安を感じたことはほぼ無かったと記憶している。音読では、「私」が現れる度合いが、他の発表形式よりも低く感じられたからだと思う。漢字の読みを、そこまで大きく外すことは無いだろう、という、言ってみれば自信のようなものをあったように思う。

 

聞き手が私に対してどんな印象を持つか、私自信が自分の発表に自信があるか、の2点が、私が不安を感じるかどうかを決める大きな因子に思える。

 

言い足りないことがある。

 

前者、つまり、「聞き手が私に対してどんな印象をもつか」について、「聞き手のことをよく知らないと、どんな印象を持たれるか分からず不安」と書いたが、より私が恐れているのは、聞き手の習熟度の高低が推し量れないことによって、相対的な自分の習熟度の位置、立ち位置が推し量れないことだ。

 

もちろん、聞き手の習熟度、能力が、私のそれよりも明らかに高い、という場面で何かしらの発言・発表をすることも私は怖い。おそらく、これが本質なのだろう。

 

聞き手のことがよく分からないから不安、とは、言い換えると、聞き手が私よりも「能力」が高いかもしれず、その場合、私は何かしら失言をして恥をかくかもしれないから不安、ということ。だから、私が人前で話をしたくないのは、結局、恥をかきたくないから、という点に行きつく。

 

恥ってよく分からない感情だ。私が思う、恥、というのは、私という人間が、「この程度」と見透かされるような恐怖感のこと。今、過去の体験を分析的に見てみると、恥の内実は、そのような恐怖感にあるように思える。

 

例えば、大学の講義内で、教授に発言を求められて、咄嗟に出した答えが的外れだった場合。そのことによって、私は、その場にいた人に、そのレベルの思考を持った人間として認識されるのでは、と思ってしまう。無意識レベルの心の動きを、極端、かつ無理に言葉にすると、こんなところだろうか。いわゆる、自意識過剰過ぎてつらくなる。

 

「誰もあたなのことは気にしていない」と言う人はいるだろう。でも、私には、その感覚は理解できない。

 

結局、かなり長くなっているな。でも、また書きたいことが浮かんできた。

 

ここまでは、発話内容についての話だった。けれど、私の不安感を構成しているのは、発話・発表をしている、私の容姿にも起因していると思う。つまり、私は、人前で何かを言う時、私の容姿が人にどう映っているのか、も気になっている。

 

人の視線が私の顔、身体に注がれると考えると、多少なりとも私は不安になる。「私」と書いているが、私は男である。だから、と言い切ってしまえるわけではないだろうけど、人から注がれる視線が、わいせつな視線に思えて不安になるという意味ではない。中には、私のことをそういった目で見ている人もいるかもしれないが、そのことを私が感知したことはない。私が不安になるのは、単に、私自身が自分の容姿に対してコンプレックスを抱いているからだ。

 

コンプレックスも恥と同様に、実はよく分かっていない。便利なことばだから使っているけど。コンプレックスというのは、理想とのギャップから生じる諸々の感情、とでも言えるだろうか。また話が逸れた。

 

私が抱く容姿に対してのコンプレックスについては今後書いていくとして、なぜそれが、人前で話す時に問題になるのか。おそらく、まじまじと見られている「感じ」がするからだろう。そして、カッコよくないな~と思われている「気が」するからだろう。あぁ、凄まじい自意識だ。大きく話を逸らして、あえて言うと、私が容姿に対してのコンプレックスを解消したい一番大きなモチベーションは、この、極度に肥大した自意識と多少なりとも向き合わずに済むようになるのでは、と考えるからだ。どうしたって、顔を良い方が自意識を過剰に持たずに済むように思える。モテる/モテな以前に、自分の容姿に自信が持てることは、自意識の過剰さを多少なりとも抑えやすくなる点で、(良いか悪いかは置いておいて)生き易さにつながるとは思う。

 

まとめる。私は、聞き手の「レベル」に応じて、自分の発言・発表に対して自信が持てたり持てなかったりし、かつ、聞き手が誰であれ、自身の容姿ついてのコンプレックスから、多少なりとも恥ずかしさを感じている。

 

再三書くが、自意識過剰だ。もう「自意識過剰だ」と書くことで、己の自意識過剰さを弱毒化したい。そういったレベルだ。

 

以上