三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

不安なこと⑤ 職場の人間関係

人生、運の要素が大きすぎやん、という。

 

「運」って言葉は、まあ、なんというか、結局あっても無くても同じな気がする言葉で。「心」とか「魂」とか、それこそ「運命」みたいに、その言葉があるが故に、その言葉の対象が存在している気がしてくる、みたいな。それくらい頼りない言葉だと思う。まあ、そもそも言葉なんてどれも「あっても無くても同じ」なのかもしれないわけで。

 

で、「運」という言葉をあえて使うとして、職場にどんな人がいるのかっていうのは、ほぼ運じゃん、と思う。しかも、運で決まるくせにドでかい問題になりうる。こわいな~っていう。

 

以上

 

としてもいいけど、もう少しだけ書くか。

 

職場の人間関係もそうだし、どんな家庭環境のもとに生まれてくるのかもそうだし、どんな顔形で生まれてくるのか、つまりどんな遺伝子を持って生まれてくるのかもそうだし、人生の大問題に、「運」影響しすぎ。

 

だからだろうけど、ハクスリーが『素晴らしい新世界』で描いているような(描いてなかったらすみません)、試験管の中で遺伝子操作をしちゃうような世界が、私には全然ディストピアに思えない。そういった遺伝子の選別に対して批判的な人が、もしも現在の社会(=この世界)でマジョリティだとするなら、その主張ってかなりバイアスがかかっているのでは、と思う。自分が、先進国に生まれたから、美人に生まれたから、IQが高く生まれたから、お金持ちの家に生まれたからetc...もちろん、遺伝子の選別に肯定的な意見も、もしかするとその主張をしている人がこの世界でマイノリティに属していることによるバイアスド(biased,造語かも)な意見かもしれない。けれど、両者が同じくバイアスドな意見なのであれば、巨大な格差のような、より悲惨な事態が起きうる選択肢(まあ、つまりはこの世界で起こっていること)は控えるべきでは、というのが私の意見。あと、遺伝子選択の問題と「どこの国(地域・家庭)に生まれるか」は別問題なのだけど、より解決しにくい問題(=「どこの国に(地域・家庭)に生まれるか」)は後回しにして、先に(相対的に)解決しやすい問題(=遺伝子格差)に取り組めば?と思う。

 

そう言えば、もともとこの文章は「職場の人間関係」について書いていたんだった。遺伝子格差を是正しても「職場の人間関係」はまだ「運ゲー」のままか。残念。

 

「職場の人間関係」について考えていたつもりが「遺伝子格差」の話になるというのは、おそらく「遺伝子格差」の方が取り組みやすい課題だと私が考えているからだろう。「職場の人間関係」の方が、「遺伝子情報」よりも、(直観に反して)変数が多い気がして、倫理的にどうかを置いておくなら、後者の方がコンロトールしやすいと思う。遺伝子情報って、私は詳しくないけれど、多くても1億とか10億くらいのスケールなのでは。

 

混乱してきた。「遺伝子格差」って、私には(子供をもうけないと仮定すれば、もう)関係ない話だ。すでに生まれてきているのだし。一方の、「職場の人間関係」について、究極的に考えるべき変数は、「その職場に居続けるか、退職するか」の2択。とすると、ゲノムが1億とか10憶くらいのスケールなのに対して、こっちは2択。「遺伝子格差」の方が「職場の人間関係」よりも取り組みやすいなんてこと全くないのか。「職場の人間関係」ってすごくシンプルな問題なのでは?

 

つまり、視点をどこに置くかで問題の複雑度(?)が変わる、という話なのかもしれない。「遺伝子格差」って、どうしても(私たちはもうすでに生まれているので)客観的な、第三者的な視点からしか取り組めない問題なので、「イケメンに生まれるか/ブサイクにうまれるか」みたいな2択にもちこめない(「どの個体の遺伝子も完全に均一にする/個体差を残す」みたいな意味での2択は考えられるなぁ...)一方の「職場の人間関係」は、究極的には、個人の意思で決着できる問題だから「居続ける/やめる」の2択に落とし込める。

 

無理やりまとめようとしてない?わからない。マジで(人情味が無いという意味で)冷たい論理を構築している気もする。まあでも、一見複雑そうな問題も、実はめっっちゃシンプルであるってことに気が付ける(可能性がある)ってのはある種の救いがあるか。

 

以上