三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

不安なこと① 人前で話をすること

今日、バイトの帰り道、唐突に、「不安なこととか心配なことをブログに書き続けよう」と思った。理由は、どこかに吐き出さないと、ずっと頭の中で不安や心配がグルグルと回るから。ここ数年、紙のノートに書いたりしてきたけど、人の目に触れるかもしれないという多少の緊張感があった方が、より継続しやすいと考えて、こちらでも書く。

 

何個くらい書けるか分からないけど、できるだけ毎日書きたい。思いついたことを出来るだけそのまま書いていく。恨みつらみはできるだけ書かない。誰かを攻撃したいとかも全くないので、そういう内容も書かない。ネガティブになりすぎないようにはしたいけど、思っていることをありのままに書くことを優先する。

 

一旦下書きに置いて、次の日また続きを書くとかしていると公開できなくなるので、書き始めたらどれだけ短くてもその日のうちに、と言うより、そのアクセスの内に公開までしたい。それくらい軽く書く。

 

本題。

 

人前で話すのは苦手。講演会とか、もし自分が有名人でも、難しいだろう。自分の言っていること、書いていることが、常に査定されている感じがしている。つまり、話していることが、論理的に破綻していないか、がすごく気になる。論理的に破綻していることだけを恐れているのではなく、他にも、論理的には破綻していないがレベルの低いことを言っているのではないか、というのも気になる。ここまで、無意識的に、大学の講義などにおいて、何かしらの発表をする場面を想定して書いている。でも、大学だけでなく、高校・中学においても、私は、人前で話すのが好きではなかった。ただ、歳を重ねるごとに、不安感は強くなっている気がする。

 

中学・高校の時は、聞き手がどんな人間かよくわかっていた。大学の講義の場合、聞き手、つまり、教授や他の学生とはあまり面識がなく、彼らが私の発言に対して、どのような印象を持つのか想像がしにくかった。そういったことも、不安感が強くなった原因の一つかもしれない。ただ、高校の時、他の生徒の前で英文の暗唱をしたことがあったが、あれは、すさまじく緊張した。1週間くらいまえから憂鬱だった。だから、おそらく、聞き手が抱く印象を想像できないことだけが問題でもなくて、私自身が、その発表内容に対して自信があるのか、ということも大きいのだと思う。

 

中・高と、現代文の時間の、「音読」で、緊張したことや不安を感じたことはほぼ無かったと記憶している。音読では、「私」が現れる度合いが、他の発表形式よりも低く感じられたからだと思う。漢字の読みを、そこまで大きく外すことは無いだろう、という、言ってみれば自信のようなものをあったように思う。

 

聞き手が私に対してどんな印象を持つか、私自信が自分の発表に自信があるか、の2点が、私が不安を感じるかどうかを決める大きな因子に思える。

 

言い足りないことがある。

 

前者、つまり、「聞き手が私に対してどんな印象をもつか」について、「聞き手のことをよく知らないと、どんな印象を持たれるか分からず不安」と書いたが、より私が恐れているのは、聞き手の習熟度の高低が推し量れないことによって、相対的な自分の習熟度の位置、立ち位置が推し量れないことだ。

 

もちろん、聞き手の習熟度、能力が、私のそれよりも明らかに高い、という場面で何かしらの発言・発表をすることも私は怖い。おそらく、これが本質なのだろう。

 

聞き手のことがよく分からないから不安、とは、言い換えると、聞き手が私よりも「能力」が高いかもしれず、その場合、私は何かしら失言をして恥をかくかもしれないから不安、ということ。だから、私が人前で話をしたくないのは、結局、恥をかきたくないから、という点に行きつく。

 

恥ってよく分からない感情だ。私が思う、恥、というのは、私という人間が、「この程度」と見透かされるような恐怖感のこと。今、過去の体験を分析的に見てみると、恥の内実は、そのような恐怖感にあるように思える。

 

例えば、大学の講義内で、教授に発言を求められて、咄嗟に出した答えが的外れだった場合。そのことによって、私は、その場にいた人に、そのレベルの思考を持った人間として認識されるのでは、と思ってしまう。無意識レベルの心の動きを、極端、かつ無理に言葉にすると、こんなところだろうか。いわゆる、自意識過剰過ぎてつらくなる。

 

「誰もあたなのことは気にしていない」と言う人はいるだろう。でも、私には、その感覚は理解できない。

 

結局、かなり長くなっているな。でも、また書きたいことが浮かんできた。

 

ここまでは、発話内容についての話だった。けれど、私の不安感を構成しているのは、発話・発表をしている、私の容姿にも起因していると思う。つまり、私は、人前で何かを言う時、私の容姿が人にどう映っているのか、も気になっている。

 

人の視線が私の顔、身体に注がれると考えると、多少なりとも私は不安になる。「私」と書いているが、私は男である。だから、と言い切ってしまえるわけではないだろうけど、人から注がれる視線が、わいせつな視線に思えて不安になるという意味ではない。中には、私のことをそういった目で見ている人もいるかもしれないが、そのことを私が感知したことはない。私が不安になるのは、単に、私自身が自分の容姿に対してコンプレックスを抱いているからだ。

 

コンプレックスも恥と同様に、実はよく分かっていない。便利なことばだから使っているけど。コンプレックスというのは、理想とのギャップから生じる諸々の感情、とでも言えるだろうか。また話が逸れた。

 

私が抱く容姿に対してのコンプレックスについては今後書いていくとして、なぜそれが、人前で話す時に問題になるのか。おそらく、まじまじと見られている「感じ」がするからだろう。そして、カッコよくないな~と思われている「気が」するからだろう。あぁ、凄まじい自意識だ。大きく話を逸らして、あえて言うと、私が容姿に対してのコンプレックスを解消したい一番大きなモチベーションは、この、極度に肥大した自意識と多少なりとも向き合わずに済むようになるのでは、と考えるからだ。どうしたって、顔を良い方が自意識を過剰に持たずに済むように思える。モテる/モテな以前に、自分の容姿に自信が持てることは、自意識の過剰さを多少なりとも抑えやすくなる点で、(良いか悪いかは置いておいて)生き易さにつながるとは思う。

 

まとめる。私は、聞き手の「レベル」に応じて、自分の発言・発表に対して自信が持てたり持てなかったりし、かつ、聞き手が誰であれ、自身の容姿ついてのコンプレックスから、多少なりとも恥ずかしさを感じている。

 

再三書くが、自意識過剰だ。もう「自意識過剰だ」と書くことで、己の自意識過剰さを弱毒化したい。そういったレベルだ。

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

岡田斗司夫さんと物事を継続することについて考えてみる。

かなり久しぶりにブログを開き、過去の下書き集を眺め、かなり嫌な気分になった。

 

完結することなく、そのままにされた文章がいくつもあるから。

 

「人生ってそんなもんだよね」なんて、自分の中途半端さをすぐに、「人生」なんていうすごくボンヤリとした、あきらめともとれる文句で、薄めてしまうことも、できる人にはできるのだろう。

 

でも、自分の場合は、それではこの嫌な気分は消えないだろうな。

 

この下書きたちは、かなり昔に書き始めたものばかりで、当時考えていたことと今考えていることをある程度無理やり接続しないとその下書きに続けて書いていくことができないことが苦しい。

 

いっそのこと全部下書きを消してしまう?

 

それは、なんとなく違う気がする。

 

岡田斗司夫さんの「スマートノート」を、僕が続けられるのは、ここに大きな理由がある。

 

①下書き/本番の区別がない。

②①ゆえに、「書きかけ」という状態がない。ノートに書いたものはすべて「完成品」とも言えるし、すべて「下書き」とも呼べる。

③ある日に書いたことを翌日以降に持ち込まない。

④できるだけ毎日書いた方がいいけど、無理はしない。

 

ざっとこんなところだろうか。

①~④までは、全て、岡田斗司夫さん考案の「スマートノート」の、定義もしくはルールから導かれるものだ(もしくは岡田さん自身がルールとして挙げていたものです。読んだのが4か月ほど前で、記憶が少し曖昧なので「導かれるもの」とすこしぼやかしています。気になる人は、「岡田斗司夫『あなたを天才にするスマートノート』」とでも調べてみてください)。

 

多分、岡田さんは、「誰もが続けられるメソッド」を考えるのが相当上手な方だ。

 

他にもたくさんの能力をお持ちだろうが、僕は岡田さんのこの能力にとくに関心している。

 

上から目線みたいで嫌だな。でも、これ以外の表現の仕方が思い浮かばないので許していただきたい。

 

岡田さんは、「スマートノート」の前に「レコーディングダイエット」のアイデアを提出して、それで一躍有名になった感のある人だと思う。

 

その「レコーディングダイエット」のアイデアも、僕はかなり秀逸だと思っている。

 

詳しいことは知らないのだけど、とにかく食べたものをメモしていく、と言うダイエット方法だったはず。

 

僕は今、別にダイエットをしていないけど、もしするとしたら、この方法でするだろうなと思う。それくらい実用性が高いと思う。

 

「スマートノート」と「レコーディングダイエット」も、ともに、大多数の人間が継続して物事に取り組むことを可能にするようルールが作られている。

 

その「ルール」については、上の①~④に書いた。

 

せっかくなので、①~④をもう少し抽象化しておこう。

 

①はそのままかな。「下書き/本番の区別がない」・・・(①-A)。

 

でも、これって、ある重要なファクターが隠されていると思う。

それは「本番が求められる状況ではない」・・・(①-B)ってこと。

 

「下書き」と「本番」を区別しない、というのは、とりもなおさず、その、区別を付けなくていい状況が求められる。実はこれが結構なポイントだと僕は思っている。このことについては後で触れたい。

 

②は、どうだろう。これは、①-Aに含まれているってことでいいか。

 

③。これは、「締め切りがあらかじめ設定されている」・・・(③-A)とでもしておこうか。

 

④はこのままでもいいけど、一応「書く」こと以外の行為にも当てはまるように「書く」の部分だけを言い換えておく。

 

「できるだけ毎日した方がいいけど、無理はしない」・・・(④-A)

 

(①-A)下書き/本番の区別がない

(①-B)本番が求められる状況ではない  (←条件というより前提?)

(③-A)締め切りがあらかじめ設定されている

(④-A)できるだけ毎日した方がいいけど、無理はしない

 

こんな感じか。この4つの条件を書くことができただけでも十分だな。

 

別に、「この4つの条件を満たしていたら、物事は継続できます」とか書くつもりはない。

 

僕の経験上、いくつかの条件を満たしていれば物事が継続できる、というほど、なにかを継続してするというのは単純なものではない。

 

そういう意味では、上の4つは、「物事を継続する」ことの必要条件の案としては機能するかも。

 

ここでおわってもいいのだけど、あとちょっと。

 

上で、

 

「下書き」と「本番」を区別しない、というのは、とりもなおさず、その、区別を付けなくていい状況が求められる。

実はこれが結構なポイントだと僕は思っている。このことについては後で触れたい。

 

と書いた。せっかくなのでこのことについて触れておきたい。

 

僕らは、ともすると、結果を求められる状態でなにかを継続しようと試みる。

 

例えば、何があるかな。

 

僕なんかがリアルに感じられるもので言えば、就職のための資格の勉強とか。

 

就活とか、昇進のためにTOEICの勉強をしている人もたくさんいると思う。

あと、大学受験でいい大学に行きたくて勉強している人とか。

 

こういった状況で、何かを継続(ここだと勉強)をするのって案外難しいのだと思う。

 

僕の主観でしかないのだけど。

 

いや、もちろん、1年や2年くらいであれば、勉強その他の活動を継続してできる人も中にはいるのかもしれない。こういった資格取得のためであったり、志望校合格のためであったりのために。

 

違うな。別に、結果が求められる環境があるのなら、人は何かを継続できるような気がしてきた。

 

わからなくなってきたから、一旦終わりにしよう。

 

おわり

 

 

 

 

読書感想文でも載っけてみたい 『会計士は見た』 前川修満/文藝春秋

けっこう長い期間、このブログを放置していた。

 

会計士試験から一旦の撤退を決意して、今は他の就職口を探し中。

 

別にどんな進路を辿ろうともこのブログは続けていきたい。

そんなことを思ったので、久しぶりにページにアクセスした。

 

この1年半くらいは資格試験の勉強のことが常に頭の片隅にあるような状態で、本もなかなか落ち着いて読めなかった。

 

現時点、というより、資格の勉強をしている時も、ずっと読書はしたいと思っていた。

資格の勉強と読書を並行してできる人は中にはいるのだろうけど、今の僕はそれがなかなかできない状態だ。

 

こう書くと「自分ってほんと『0・100思考だよな』」って思う。どっちもできるでしょって。

 

ただ、こうして、どっちかを一旦止められるようになるのも一種の‘‘成長‘‘でしょう。

で、何を一旦止めるかと言う時に、自分は資格の勉強を選んだ

(いや、「選んだ」とも言えないほどボロボロの状態で撤退しただけだけど)。

 

基本何かに進んでいく気力が無くて、その中でも続けられるのが「文字を読む」ことと「文字を書く」という2つのこと、という状態。

 

「テストを時間内に解く」とかを出来るほどの気力がなくなった。もちろん時間制限が無ければ解けるかというとそういうわけでもなくて、そもそも意識を会計の勉強に向け続けるのがしんどい。

 

そんなことを思っている日々。そんな中ではあるけど、会計の本をちょっと読んでみている。計算問題を解くほどの気力は無いけど、会計がこの社会で果たしている役割とか、会計の全体像とかには興味があるので、ちょこちょこ本を読むことは割と続いている。

 

・『会計士は見た』 前川修満/文藝春秋(2015)

 

この本は結構面白かった。面白いこともあって、ノートも取りながら読んだ。

特に第三章「コジマ、日産」の章を面白く読んだ。

 

コジマの業績がケーズデンキに追い抜かれた原因として、正社員のリストラと、残存正社員の給与削減による士気の低下があった。

 

一方で、カルロス・ゴーンが経営の指揮を執った日産では、同じく正社員のリストラによる人件費の削減が行われたが、残存正社員の給与をむしろ増加させたことにより、社員の士気が低下せず、そのことが業績アップという結果として現れた。

 

まとめるとこんな感じ。

 

人件費(=販管費)を削ると一口に言っても、正社員を削ってパートを増やす、もしくは社員の数は減らさず給与の見直しを行う、これらの方法を組み合わせる等いくつか方法があることが分かった。翻って、これまで「人件費を削る」と言ったときには、あたかも「人件費を削る」という一つの行為、言ってみれば「ボールを蹴る」と同じ、単体の行為があるかのように思っていた。それくらい漠としたイメージしかなかったし、具体的に考えようとする誘因も無かった。

 

実際「人件費を削る」を行うときに有効な手段として用いられているのは、「正社員をパートに置き換える」方法と思われる(主観。本書に何回か登場したので有効な方法なのだろうと勝手に思っている)。日本の法律ではたしか正社員を強制的にやめさせることはできないので、実際どうやって実行しているのだろうという疑問が湧いた。

 

以上

 

久しぶりに読書感想文的なことを書いてみて、パソコンで文字を書くよりも紙のノートにバーッて書く方が今は好きかもって思った。

 

また気が向いたら書こ。

今は田中弘の『新財務諸表論』と岡本清の『原価計算』をちょびちょび読み始めているので、そこで面白いと思ったことを書いていきたい。かな。

制限、フレーム、枠(PDCA的生活・21世紀的苦悩からの解放)および森博嗣さんの本について(『読書の価値』、『勉強の価値」、『集中力はいらない』等) 、あと厄介な習癖について

以下は2021.7月頃に書いていたと思われる文章。

丁度、冨田和成さんの『鬼速PDCA』を手に取って見た時期。

 

(以外2021.7月頃の文章)

最近は、書いている内容が徐々に徐々に偏りつつある。

 

そしてその偏りを分析することによって、僕はずっと「『完全』から疎外された状態で如何に生きるか」というテーマで書いていたのだと気が付いた。

 

あらゆるメディアの存在によって、想像力だけたくましくなってしまった現代人のありふれた悩みだ。

 

でも、ありふれているからといって簡単に解決できるわけではない。

人それぞれに、その人固有の解決策があるはずだ。もし解決策があるとすれば。

 

僕の場合は、それが「PDCA」になるかもしれない。

あのPDCAだ。

 

(以上2021.7月頃の文章)

 

 自分にありがちな、前置きだけ書いて疲れたパターンだ。

 

 たぶん、この時もこの後何を書くか考えずにここまで書いてる。今もそうだけど。

 

 当時(だから丁度半年くらい前)、資格の試験を受け、それまでの勉強の仕方を反省するにつけ、自分の計画性の無さが目についた。

 

 というよりも、そもそも「反省」すら出来なかった。常に行き当たりばったりで勉強してきたので、そもそも反省する対象(どんなふうに勉強したか)を把握することすらできていなかった。

 

 それで、それまではずっとその効果に懐疑的だった「PDCA」を知ろうと言うことで上に挙げた本を買った。

 

 本を買って2週間くらいは、本に書いてあることに忠実に行動しよう、みたいに思ってたけど、自分の縛り方がキツかったせいか(本に書いてあるよりも緩くしたつもりがそれでも自分にはキツかったみたいだ)すぐに元の行き当たりばったり方式に戻った。

 

 何がダメなんだろな、とよく思う。

 

 何がどうなれば続くんやろう、と。

 

 「物事を継続する」とか聞くと、「継続するだけやん」って思っていたけど、まあ、難しい。

 

 なんだかなぁ。「やるだけ」なのができないのはつらいなぁ。

 

 そもそも、「やるだけ」にならないようにしようということで始めたシステムが継続できないという。

 

 モチベーションの無限後退

 

 勉強を続けるためにシステムを導入したら、次はシステムを継続するモチベーションが湧かない、という。

 

 こういうことだと思う。生きていく、というのは。最近ほんと、そう思う。

 

 論理で進んでいけるのはある一定の所までで、その先は「ジャンプ」する必要があるみたい。

 

 「次をすべきか」は論理的に決められることかもしれないけど、そもそも何かを始めようと思うとき、何かしらの「ジャンプ」が必要。

 

 やるべきことをするだけ、という話について、最近読んだ本の中に考える材料があった。

 

 2021年の12月頃から5~6冊ほど森博嗣さんの本を読んだ。森さんのベストセラーと言えば『すべてがFになる』だけど、自分はその小説は読んでいない。森さんの小説で読んだのは『喜嶋先生の静かな世界』のみ。

 

 他は評論?的なものばかり。『勉強の価値』とか『諦めの価値』とか『読書の価値』とか『科学的とはどういう意味か』とかとか。

 

 森さんは、工学部の助教授をしながら作家としても大成功をおさめられた人らしい。元助教授だけあって、話が論理的なように感じる。たぶん森さん自身が意識的にそういう書き方をされているのだと思うけど、ほとんど「危ない」ことを書かない。

 

 「危ない」というのは、コンプラ的に危ないという意味ではなくて、「論理的に飛躍している」という意味での危なさ。そこは大学の先生(特に理科系の先生ということもよりその傾向を加速させているのかな。そんなことを言ったら文型の先生方が怒りそうだ)だけあって、ツッコミを入れる隙がない。断定できないことをあえて(調子に乗って)断定する、ということがない。

 

 森さんは、願ったことが願ったとおりに実現していくことが楽しい、とか幸せだ、と書いている。私はその感覚が、森さんの本を読み始めた当初分からなかった。今でも「そういう人もいるのだなぁ」というくらいの理解にとどまっている。

 

 私はどちらかと言うと「棚ぼた」的な出来事に巡り会うことを幸せだ、と呼んでいた。そのラッキーさ、僥倖を噛み締めることが幸せなのかな〜とか。

 

 あえて、自分を下品に書いているかも。森さんの考えが高級というか、“進んだ“ものだろうと思うので、それとあえて対比してみたい、との考えから。

 

 安易な対比を持ち出すとすると、森さんは用意周到で、私は行き当たりばったりと言える。森さんと私の対比と言うよりは、森さんとその他大勢との対比と言ってもいいかもしれない。私は、まあ(悲しいかな)‘‘普通‘‘寄りの感性の持ち主だとは思うので。

 

 森さんの本、(小説の方は、森さんが人間として面白いから読んでいるという人も、小説自体が面白いから読んでいて作者にはそこまで興味がないという人もいると思う)少なくともエッセイ集が売れているのは、森さんのその用意周到さが、ある種、‘‘異常‘‘の域に達していて、その異常性に興味をそそられる人が多いからというのも大きな理由だと思う。

 

 いや、もちろん、「異常性」なんていう風に呼んでる人は他にいないだろうし、森さんから見れば私みたいな行き当たりばったりな人間が「異常」なのはわかっているけど、あえてそう書いている。それくらい私にとって、森さんのモノの考え方、および、その考え方に沿って生きていけていること、はインパクトのあるものだ、ということ(「インパクト」とかいう語をこんな風に適当に使うと森さんは「バカだな~」と思うんだろうな)。

 

 私にとって、森さんの「論理的飛躍の無さ」、「用意周到さ」、「計画通りに物事を遂行していくさま」は、すごく欲しているものである一方で、努力して身に着けたいものかと言われると怪しいもの、になる。

 

 自分が何者でもないただの人であるという事実を一旦脇に置いておく。そして、まあ、いわゆる「超優秀な人間」になるだけのポテンシャルがあったとする。

 

 つまり、地頭が良いとされている学校に通っているとか、家がお金持ちで、自分が望めばどの分野の教育でもたくさんのお金が使ってもらえる、とか。よくわからない。とにかく、「やればできるんだろうな」と周りから思われている、ということ。

 

 で、自分がその状況にあった時に、森さんみたく自分の夢に向かってコツコツと進んでいけるだろうか、と思ったときに、進んでいかなそうだなと思った。

 

 というか、正確には、進んでいきたくないと思いそうだと思った。

 

 つまり、ある目標があり、着実に歩んでいけばその目標に到達できる、と分かっていても、自分はそれができないし、したくないと思っている、ということ。

 

 こうして言葉にすると、かなりひねくれていると感じる。でも割とありふれたことでもあると思う。ダイエットとかはその典型で、摂取するカロリー以上に消費すれば必ず痩せる。でも実際ダイエットに失敗する人も多い。受験勉強も理屈は同じだろう。受験日までに教科書に書いてあることを理解すればよく、理解が足りないと思われる箇所は受験日までに潰しておけばいいので。

 

 理屈の上では、ダイエットも受験勉強も成功させる方法は分かる。けれども、実行できない。そういう人は多いと思う。私もその一人なのだろう。

 

 それで、巷では、「成功させるための方法」を実行‘‘できない‘‘ことが悩みだ、と言う人が多い。でも私は、それは違うのではと思っている。つまり、ダイエットができな語り、受験勉強に失敗したりするのは、「実行力」なるものが欠如しているというよりも、そもそも正しいと言われているダイエット法なり勉強法に則って痩せたり試験に合格するのが嫌なのだと思っている。

 

 それは、そもそも「痩せたくない」とか「志望校に受かりたくない」とはまた違う話だ。そもそも「痩せたくない」、「志望校に受かりたくない」と潜在的に思っていて、現に痩せられなかったり、志望校に落ちることは、実はそれほど不幸なことではないかもしれない。あとあと「痩せなくてよかった」、「落ちて良かった」と思う日が来るかもしれない(ありそうにもないけれど)。

 

 私が考えているのは、目標であるところのダイエット・志望校合格を、本心で達成したいとは思っているのに、それでもその過程でつまづいてしまうことってありますよね、ということであり、実は、その失敗というのは、「正しい」とされている方法論に対して、それこそ潜在意識(か顕在意識なのかは知らないけど)で反抗というか、抵抗しているからでは、ということ。

 

 森さんはそういう葛藤がなさそうでいいな~と思ったということ。

 で、いいのかな。

 

 何か、少し違う気もするな。「いいな~」とは思っていないか。単に不思議、というか、自分には無い感覚だな~とは思った。

 

 森さんの考え方が「生き易い」考え方だとかは絶対言わないけど(まあ、言っているに等しいかも)、自分の考え方って生きにくいよな、とは思う。世間で正しいとされている方法論はとりあえず実践しておいて、その後、一般論が通用しないレベルで、もっといろいろと頭を悩ませればいいとは思う。それが自分にとっては難しい。

 

 なんで最も効率的な方法を実践できないのだろう。

 

 森さんの言うように「今それをしなければ(すれば)、後々どうなるかが分かっていない」だけなのだろうか。今ドーナツを食べれば、明日今日以上に体を動かさないといけなくなる、とか、今日勉強サボれば合格が遠のく、とか。その未来予測が雑すぎるって話だけなのか。

 

 まあ、多分大方そうだと思う。未来予測の詰めが甘い。で、未来予測の詰めが甘くなるくらいその夢に対しての気持ちも大したことない、と言われても仕方ない。

 

 つまりは面倒くさがっている、甘えているということ。

 

 最初、この文章は、「自分の計画性の無さを矯正するためにPDCAについての本を買ったけど長続きしなかった」ことについて書いていた。その後、森博嗣さんの本を読む、自分は森さんのように計画通りに物事を進めることが苦手であり、もしかすると、それは自分の中にある「正しいとされているものに従いたくない」という気持ちが原因なのではないか、と言うところまできた。そして、それは単にいろいろと面倒くさがっている、または甘えているということなのだろう、というところまできた。

 

 こうして文章にして客体化してみると、読み返してみると、やはり自分は甘えている部分が大きいように思う。ただ、もう少し、単に「甘えているだけ」と切り捨ててしまわないで、自分の、この、一般的な価値観からすればどうしようもない性癖とでもいうようなものと付き合っていきたい。

 

おわり

 

 

 

 

退屈 あと、退屈さとは関係無い話として、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ

下の文章は2021.1月5日に書いていたもの。

今も同じようなことを考えている。

 

(↓2021.1.5に書いた文章)

僕の人生を一言で表すならこれ(=「退屈」)だな。

 

今日はひどく憂鬱な一日だった。

人生になど何の意味も無い、という考えが何度もよぎる日。

 

人間いつかは死に、それまでその人が築き上げてきたものは、その人が死ぬ瞬間(少なくともその人にとって)無に帰す。

 

人は誰しもこの運命とともに生きているけど、皆どのようにやり過ごしているのだろうか。

 

人類が書物を書き残すようになってから数千年とか、もしかしたらもっと長いのかもしれないけど、読んでシックリくるような本に出会ったことが無い。別に本に限らず、しっくり来て「よし、頑張って生きていこう!」と思えた本やドラマや映画に出会えたことが無い。

 

「この一冊が私の人生を変えました」とはよく聞く宣伝文句だけど、その「変えました」の程度が本当に知りたい。

 

思うに、今僕が欲しているような「人生が無意味であることを確認させてくれる」類のコンテンツは、あまりにも発展性が無いために不人気なんだろう。

 

「人生って無意味ですよね」「ええそうですね」

 

この二言で終わってしまう。ともすると「そうやって確認することも無意味じゃねえんか馬鹿野郎!」とツッコミが入る。

 

そして、人生が無意味だと語ること(ここでは「人生無意味発言」としておこう)はたいていの場合「サムイ」ことだとされている。

これは、人生無意味発言に「発展性が無い」ことの結果だと僕は思う。要は「それを話して何になるの?そんなしょうもないこと考えてる間にバイトでもしたら?」ということ(他のバリエーションとしては「そんなしょうもないこと考えてる間に彼女作ったら?」がある)。

人生無意味発言が「サムイ」ことだと世間様が考えるのは至極まっとうなことだ。

僕自身ですら、その考えには87%くらいは同意する。

 

ただ残りの13%では、「そうは言っても事実は事実やろがい」と思っている。

だから、もし僕の目の前で人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う。

 

(以上2021.1.5の手記)

 

この後何が書きたかったのだろう。

 

最後の、「人生無意味発言をする人がいても僕はふんふんと聞くと思う」というのは、今も変わらない。

 

「虚しさ」を口にすると、すぐに「メンヘラやん」と言う人とはあまり近づきたいと思わない。

 

人が「浅い」か「深い」かを自分は普段あまり考えないけど、すぐに「メンヘラやん」と言う人には、かなり「浅さ」を感じる。

 

「メンヘラ」であること・「病んでる」ことを何か(マイナス方向に)特別なものとして見ており、自分がそういう状態にはなっていないこと(「メンヘラ」でないこと・「病んで」いないこと)をことさらにアピールする様がむしろ痛々しい。

 

こんなこと言っても仕方ないなぁ。

 

 あと、先日、千原ジュニアさんの『14歳』を読んだ。この文章のタイトルをもともと「退屈」にしていて、このままだと千原ジュニアさんの『14歳』が退屈だった、みたいに受け取られそうなので、「退屈さとは関係無い話として」とわざわざ書いた。

 

 実際、ジュニアさんの『14歳』は、退屈さとはほど遠い作品だった。「鬱屈としている」とか「ふさぎ込んでいる」とか「悶々としている」なんて形容が全て愚かに、どこまでも舌足らずに感じるような、読んでいてこちらが気持ち悪くなってしまうような緊張感のある作品だった。

 

 だから、「退屈」な作品ではなかった。もちろん。

 ただ、どうして今僕が、このタイトルの中にジュニアさんの作品を読んだことを入れているのかと言えば、何だろう。タイミング的にこの文章に入れるのが適当と思ったのはあるし、あとは、僕の感じている「退屈さ」と、合う、というか、勝手にこっちがシックリきているからだと思う。

 

 いろいろ話が変わってしまうけど(話も変わってしまうし、文体も、主語ももしかしたら変わってしまっているかもしれない。「僕」だったり「私」だったり。さすがに、「私」の方が適切?な気がしてきた)、それは、最近読んだ『ライティングの哲学』に多少影響されている所がある。

 

 別に、その本の中で雑に書くことが推奨されていたわけではないけれど、それでも、書けない事に苦しみ続けるよりかは、体裁に気を使いすぎることなく、思いを文章にしていってもいいのではないかな、なんて思ったりしている。

 

 私は、後になればもっと良い文章が書けたりするんじゃなかろうかと思って、文章を書くことをため®ってしまうことが多いので、「ぐちゃぐちゃだな」くらいでも、とにかく文章にしてみてもいいかもしれないな、なんて思っている。

 

 思えば昔から、自分の書いていることが論理的に正しいだろうかということを過剰に気にしていた。「だから」、「でも」「または」などの接続詞(でいいよな)でキチキチと文章をつなげていくことに対して苦手意識があり、でもそれは多分、論理的であることへの過度の執着心の結果だったのかもしれないとも思う。

 

 最近は、「とにかく言葉をつなげること」をしてみてもよいのでは、と思うようになってきいる。昔書いた文章に、こうして感想を書いて投稿しているのもその一環だろう。とにかく一旦吐き出してみてもいいのではないか、と。

 

 千原ジュニアさんの『14歳』について書いていたのだった。

 

 私には、ジュニアさんの14歳の頃のような、激しい「反抗期」と言うものは無かったように思う。否、中学、高校時分に無かっただけで、今24歳にして迎えているのかもしれない。

 

 だから、『14歳』を、14歳の私が読んでもあまりピンとこないというか、共感に似た感情は湧かなかっただろうと思う。今でも、この感情の動きを「共感」と呼んでいいのかはかなり怪しい(だって、私は彼のように部屋に鍵をかけて断続的に引きこもる、という経験を、それそのままの経験をしていないのだから)。けれど、14歳当時の自分が、このような本に見向きもしなかったであろうことを考えると、多少、この小説の主人公の気持ちが「分かる」ようになった、と言ってもいいとおもう。

 

 いや、「気持ちが分かる」かどうかなんてどうでもいいいことだな。大事なのは私がどう感じたか。それだけ。

 

 感じたことを出来るだけ素直に書くとするなら、小説の主人公(もう、ジュニアさんでいいか。同じことだろう)は運が良かったんだな、と思った。

 

 ジュニアさんは怒るだろうけど、私はジュニアさんのことを悪く言いたいわけでは全然ない。ただ、一定期間引きこもった後に、彼のように社会復帰どころか、芸能かいの第一線で活躍できる人もいれば、そのまま引きこもり続ける人もいる、と言う話。

 

 もちろんジュニアさんが常にギラギラと、「自分が闘うべき場所」を探し続けていた、切実に欲し続けていたから、「お兄ちゃん」の誘い及びそこから生まれたチャンスを無駄にしなかった、と言えると思う。つまり、彼がチャンスをうかがい続けていたことが、彼の成功のカギだったと言えるとは思う。

 

 全く彼の成功について何か言うつもりはない。ただただ、この世界はあるがままで、成功者もいれば「成功者とは呼ばれない人」もいる、という当たり前の事実を、強く感じている。

 

 いや、ほんと何が言いたいんだろうな。う~ん、でも、多分、主人公に対して、やっぱり私には羨ましさがあるのかな。それを「この世界はあるがままで」なんて言い方をしているのかな。でも自分は、14歳の時にそんなに深く考えることはしなかったしな。

 

 あと、なんだろう、彼にとっては、中学や高校は無機質な場所だったのだろうと思うし、その延長線上にある、大学や会社だって、もちろん彼にとっては無機質極まりない場所だったはずだ(大学はどっちかというと無機質ではないかもしれないけど、それだって、サークル活動とかバイトとか、大学生活が無機質でない印象を与えるだけであって、大学自体はまあ、無機質と言ってもいいのじゃないかな。少なくとも彼はそう思っていたろう)。

 

 その彼は、お笑いを見つけて、それ以降は、テレビの向こう側からこちらの無機質な世界を見るようになったと思うけど、それで彼は救われるのだろうか。

 

 「彼が救われる」というか、彼は、自分以外の人間が、テレビの前の無機質な世界で、生き続けることを、テレビの向こう側から見ていてどう感じるのだろう。

 

 自分は救われた、と感じるのだろうか。自分は自分が生きていく道、「闘うべき場所」を見つけた、という気持ちの中で生きていけるのだろうか。

 

 「闘うべき場所」を見つけられなかった、もしくは、見つけようともしなかった人間は、バカな人間なのだろうか。

 

 非難しているみたいな書きぶりになってしまっているかな。でも、私は多分知りたいだけだと思う。彼が「救われた」と感じるなら、私もそのような道を見つけたいから。

 

 まとまらないけど、なんとなく書きたかったことは書けた気がする。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

微妙なニュアンスをたのしむ

昔書いた文章の感想を自分で書くのは面白い。

やっぱり、すでにあるもの(今だと自分が昔書いた文章)に対して何かしら言う方が楽でいい。

 

今は資格試験が終わり、とにかくなんでもいいから吐き出したいから、昔の下書きがたくさん残っていてありがたい。

 

下の文章は、今年の9月頃に書いていたもの。

 

(以外、2021.Sep頃に書いていたもの)

14日ほど前から、勉強時間を測らないようにしている。

 理由は、「今日は~時間しかできてない」と、勉強時間ばかり意識して生活するのが嫌になったし、勉強時間ばかり気にするのは資格試験を進める上で、本質的な作業ではないと思ったからだ。

 理想的なのは、1日10時間とかそれ以上勉強して、かつその中身も濃いパターン。要は質も量も備えているという。

 僕の場合、質と量の両方を同時に改善していくのが難しそうだったから、とりあえず質を重視しようということで、ひとまず時間を測ることをやめてみた。

 

 半年前くらい前は、時間を測らずにいて、さすがに量がこなせてなさすぎるからと、時間を測ることにした。

 つまり、この半年ちょっとの間で、「測らない」→「測る」→「測らない」

 

・9月5日

 今日はラインマーカーの使い方についても、思い込みがあるかもしれないと気がついた。

 マーカーは何色も引かない方がいい。何色も色分けしても、見づらくなるだけだ。という思いこみがあったが、必ずしもそうとは言えないだろう。

 

(以上2021.Sepに書いた文章)

 

タイトルが「微妙なニュアンスを楽しむ」になっていることから、当時、退屈に感じる資格試験の勉強にどう楽しみを見出そうかと考えていたことが伺われる。

 

「楽しみ」と言っても自分にとっては死活問題で、それは今も変わらない。

 

学校での勉強から、会社での労働。

毎日同じことの繰り返し。

 

こんな風に考えているので、この先の人生しんどいなぁ、みたいによく思う。

 

でも、上の文章を書いた時くらいから「自分の現実認識が粗すぎやしないか」と思い始めた。

「毎日同じことの繰り返し」って言ってもちょっとは違うだろう、と。

 

同じ先生の講義でも、毎回内容は違うわけで、それは「微妙」ですら無い変化だけど、同じ「講義」という名前のもと、一括りにして、あまりにもさーっと目の前を流れさせてしまっていないかと。

 

そもそも「同じ」とか「違う」とか、相対的なものでしかないな、と思い始めた。

 

いや、揺れている。ずっと揺れている。

「とはいえ、退屈なものは退屈やろう」ともよく思う。

ただ、これまでは「揺れ」てすらいなくて、「ずっとこのまま同じことの繰り返しやん」としか思ってなかったから、“視野が広がった“と思っていいだろうか(「視野が広がった」と書くのは不本意。他が思いつかないのでこの言葉でいく。便利な言葉なので)。

 

何かをするときに、“本当に“自分が選んだものではない、という意識がどこかにあると、「好きになるしかないから好きになってるだけやん」と思ってしまう。

 

人生も、その始まりが「自分で選んだものではない」から、「好きになるしかないから好きになる」しかないものだと思う。

 

別に、好きにならなくてもいいけど、好きになった方が得だから好きになった方がいい、という点で同じ。

 

だから、今取り組もうとしているものが“本当に“自分が選んだものかどうかは置いておいて(というより、その問題に苦しみ続けながらも)その対象の小さな変化を楽しめるようになればいいな、と思う。

 

もちろん、嫌いなままでも取り組める人はそれでいいと思う。自分はそうではないかもしれないので、好きな部分を見つけないと付き合い続けられない。

 

 

終わり

 

変えられるもの、変えられないもの

下の文章のおおもとは4.5か月くらい前(つまり2021年8月あたり)に書いていたもの。

今(2021年12月)読んでみて、少しだけ手直しして公開する。

中途半端な文章のまま「下書き」ボックスに入っているものが多く、それを削除してしまうのももったいないし、かといって放置し続けるのもなんなので。

また言い訳めいたことを書いてしまっている。

 

(以外、2021.Aug頃に書いていたもの)

日々、「頑張らなくては」と思うことが多い。

特に、大学に入学して以降の5年間、強迫観念的にに僕にこの考えがまとわりついてきた。

でも強迫観念がいて回る割には、満足のいく成果が上がってない。

そこで僕はなんで成果が上がっていないのかを考えてみることにした(僕の求めている成果が大きすぎるっていうのはある。"一般的な”価値観からすると誇大妄想と言われてもおかしくないレベルの目標をたてがちなので)。

 

それで気が付いた。

自分が一体何を頑張ってきたのかを自分ですら把握できていないことを。

 

「どう頑張るか」を考える前の話だ。方法論を考える前に、何を頑張るかのかがそもそも明確になっていなかった。まあ、なんとなく生きていたのだな。

じゃあ、今後は頑張る対象を明確にしようと思った。

 

そうすると、次は一体何を頑張るんだってなって、自分はどの分野の何なら頑張れるかなと考えたけど、そもそも「頑張れる」対象って「変えられるもの」だなということに気が付いた。

 

だってそうだろう。

絶対に変えられないことに注力しても何も成果は上がらない。端的にゼロだ。

「変えられないことに注力しても成果は上がらない」は言葉にしてみるとその疑いようのなさが分かるけど、実際僕は変えられないものに注力していて可能性がある。否定はできない。

 

だから何を頑張るのかを考える前に、何なら「頑張れる」のかを考えるべきであること。好き嫌い・モチベーションの話以前に、原理的に「頑張ることが可能なこと」は何なのかを整理すべきだと僕は思った。

 

まず、世の中を見回すと「変えられるもの」の方が多そうなことに気が付く。

スマホの設定を変えることができるし、電気をつけて部屋の明るさを変えることができるし、整形すれば顔を変えることができる。

学歴を変えたければ今何歳であっても、入学条件さえ満たせば望む学校に入学し学歴を変えることができる。自分の身体がある場所を物理的に変化させたいのであれば宇宙空間にだって移動させることもできる。

最後2つは実現するのは難しいかもしれないけど、別に無理ではない。

 

こんな風に世の中には、パッと見では「変えられる」ものの方が圧倒的に多い。

とすると、「変えられるもの」が何であるのかを考えるためには少数であろう「変えられないもの」を挙げて、それ以外が「変えられるもの」とするのがいいみたいだ。

 

ではでは、「変えられないもの」とは何か。

僕は過去自己同一性だけは変えられないのではと考えている。

両者は厳密に言えば同じこととも言えるかもしれない(「過去」に「自己同一性」も含まれるかもしれない)けど、そこは後々触れたい。

 

まず、過去が変えられないものであることについて。

まあ、これに異論はないだろう。

「西暦××年にAさんに告白して振られた」という歴史的事実は、この世界に"客観的に”(ここにツッコまないで)存在している。

もしその何年か後にAさんに再アタックしてその恋が成就したとしても「振られた」という歴史的事実が変化するわけではない。

 

鎌倉幕府の成立が1192年と教科書に書かれていようが、1185年と書かれていようが、真の歴史的事実は「いつも一つ」ということ。

 

次の自己同一性とは、ここでは「そのものの成り立ち」と同じような意味で用いている。

 

今ここに、外見では一切区別できないティッシュの箱が2つあるとする。

その時僕たちはふつう同じティッシュの箱が2つあると考える。

でも、「そのものの成り立ち」という観点でいうとその2つは明確に分けることが可能だ。

片方の箱は中国で作られ、片方はベトナムで作られた後に僕たちの目の前に持ってこられれたとしよう。

その仮定のもとでは、両者は「どこで作られたのか」という属性によって区別ができる。

 

仮に二つの箱が同じく、中国のある工場の、ある製造ラインで、同じ日に、同じ材料から作られていたとしても厳密には両者は区別可能だ。

片方の作られた時点は、もう片方の作られてた時点よりも微妙にずれているはずだし、両者が作られてから僕たちの目の前に届けられるまで、そして現に今もこの世界の中で占めている座標軸は同じではありえないからだ。

 

同じ時点(瞬間)に世界の中の同じ座標軸を占める物体が存在しない(僕は考えるのでその線で話をする)以上、この世のあらゆる二つ以上の物は、それぞれに固有の成り立ちを持った存在であると言える。

 

そして、僕が「自己同一性」を変えることができないというのは、端的にいうと「これまでの『成り立ち』を変更はできないし、これからもそれはできない」ということだ。

 

これから先の未来に、さっき登場したティッシュの箱が、世界のどの位置を占めていくのかは今現在では確定してはいない。

 

次に、「変えられることのできるもの」=「可変物」と「変えられないもの」=「非可変物」との境界を探しにいく。

 

ここで取り組む課題を定式化すると次のようになる

 

すなわち「すべてのモノ、存在者(=万物or世界)を『可変物』と『非可変物』に分ける境界線は何か?」となる。

 

では最初に、可変物の具体例から考える。

 

例えば、身長。

 

今日と昨日では、身長はごくごくわずかであっても変わっているはずだ。

 

次に、テストの点数。

 

過去のテストの点数は変えられないけど、これから受ける点数は「変えられる」。

 

厳密に言うと、まだ存在していない将来のテストの点数を「変える」とは言えない。

これは難しい点だ。

 

例えばAさんは第1回のTOEICの点数が500点だったとして、第2回のTOEICが600点だったとする。

 

この時、AさんのTOEICの第1回目の点数は金輪際500点だ。

でも「Aさんが獲得したTOEICの点数の最高点」は、Aさんが第2回のTOEICの点数が600点を獲得した時点で更新された。

 

一つのモノについてどの側面から切り取るかによって変わるか変わらないか両方あるようでも、適宜言葉を補ってやれば一意に定まる。

 

逆に、変わる変わらないが一つに定まらない時は、さらに分析可能であるともいえる。

 

例えば「日本」。

 

「日本を変えたい」というスローガンがあるくらいだから日本は可変物か。

でも、世界史の中の「日本」が毎回違う対象を指していたら困る。

 

個々では次のように理解してはどうか。

 

「日本を変えたい」という時そこで意味されているのは、「日本の政治・労働環境・経済を変えたい」ということだ。

 

世界史の教科書に登場する「日本」は逆に概念としての「日本」。

抽象的な存在、理念としての存在だからこれは変わりようがない。

人口が100人になろうとも、独裁国家になろうとも、島国でなくなっても「日本」は「日本」のまま。

 

↑ここまでが2021.Aug頃に書いていた文章。

 

最初の方は面白く読めたけど、「『可変物』と『非可変物』の『境界線』を探る」というのが、日常生活の中でどんな意味があるのかな分からんな、というのが率直な感想。

 

「身長」は「可変である」と言ったときに、そう言うことがあまり意味の無いものに映るのは、「身長」は自分の意思で変化させられるものではないからだろう。

 

逆に上の例で言えば「TOEICの点数」が「可変である」というのは、日常的な意味でも十分意味がある。

 

「日本」が可変かどうかの話については、本旨とズレてるかなと思ったけど、抽象的な名詞(ここでいうと「日本」)が指す対象が何なのかを、実はハッキリさせないまま語ってしまっていることがあるかも(だから気をつけよう)という自分への戒めとしては意味があったかも。

 

「過去」と「自己同一性」は変化させられない、という主張は、ある程度正しいものとしていいように思った。

 

上でも書いているように、この2つを合わせて「過去」と考えてもいいかな。

 

この文章から引き出せることは、今自分がやろうとしていることが「変えられないもの(≒過去)を変えようとすること」になっていないかどうかを点検するべし、ということ。

 

うん、難しいわ。書くのは簡単やけど。

 

ちょっと、分かった風な感じにまとめようとしてしまっているな。

 

そもそも「過去」を「変えたい」と(切に)思ったことは(たぶん)ないし。無理って分かっているから。

 

でも、なんとなく「『過去に固執』している状態にあるんやろな〜今の自分」と思うことはあって。

 

この「過去に固執する」ことが「過去を変えたい」と思っていることと同じなのか、それとも「過去から何かしら教訓を引き出したい」と考えている状態なのかでは、話が変わってくるな、とは思っている。

 

まとまらない。

 

終わり