結局確実なものを掴めないまま終わる
どうせ人は何も確実なものを掴むことなく終わっていくのだ、と大学に入ってから思うことが増えた。
人間はかなり「賢い」生き物なのだろう。
他の動物と比べても相当「賢い」のだろう。
でもそれは過去から現在にかけての地球上に人間レベルの「賢さ」を持った生き物がいなかったということに過ぎない。
人類の歴史が何千年続いてきたのか僕はよくわからないけど、僕が生きている間に宇宙の起源とか、死んだあとどうなるのかとか、「生きている意味は何なのか」みたい問いに万人が納得するような仕方で答えが与えられることはないんだろう。
そういった類の本当に知りたいことに確定的な答えが与えられること、そしてそのような答えを得られることはないんだろう。
こんなことを考えていると、ふと2年ほど前にしたバイトのことを思いだした。
そのバイトは、テストを受けるバイトだった。
テストを数時間受けて帰るだけ。別にテスト時間中はスマホを触ったり人と話さなければ寝ていてもいいし、ボーっとしていてもいい。
僕は、できるだけ真剣に受験しようと思っていたし実際そうした。
確かテスト範囲は高校までの数学とか英語だった。
英語はそれなりに解けたけど数学は公式を覚えていないと解けない類の問題があり、やる気がそがれた。
そのテストのバイトでは自分の解答が合っていたのか間違っていたのかは知らされない。そして、解答冊子のようなものが配られることもなく、丸つけができない事はもちろん、解けなかった問題の答えもわからないままだ。
これはテストの難易度を測るのが主催者側の目的であり、バイトの人間にいちいち結果を知らせる意味も必要もないからだろう。
でも僕は内心、テストの結果が返却されないと知りながら時間いっぱいテストに向き合い続けられる人などいるのだろうかと考えていた。
人が何かに全力で取り組むことができるための条件の一つとして、自分のやったことの成果ができるだけ早くできるだけ分かりやすい形で出てくる、というものがあると思う。
その点についていうと、結果の返却がなされず解答も教えてもらえないテストなど、モチベーショが湧くはずがない(もちろんお金がもらえるというモチベーションだけはある)。
と、僕はそんな風に思っていたわけで、頑張ったこと・注力したことに対しては何かしらのレスポンスが世界の側から無いと人間って頑張れないものでしょ、と考えていたしそう思うのも自然なことだと考えていた。
でもこの考えは「生きる意味とは何か」を考える営み等の形而上学的な思索には、適応できないことが多いことが分かってきた。
つまり「生きる意味」が何なのかをどれだけ熱心に考えたとしても、どれだけ渇望しても、世界の側から「生きる意味」の解答が与えられることはない。
解答が配られないテストではやる気が起きないでしょと思っていた僕は、人生に解答は配られないという事実に思い至っていなかった。
解答が配られる・正しい、間違っているの判断がしてもらえる・頑張りを認めてもらえることが普通と僕は思っていたのかもしれない。
確かに、勉強を頑張ればある程度はその分テストで良い点が取れるだろうし、よく働けばある程度はその頑張りに応じて給料も増えるだろう。
でも、自分が向かっている「方向性」が正しいのか間違っているのかについての答え合わせはいつまでたってもしてもらえない。できない。
「自分の人生を評価するのは自分だ」みたいなことが言いたいのではない。
結果的に人はそうせざるを得ないのかもしれないけど、僕がこの記事で書きたかったのは人が置かれている基本的な状況、本人がそのことに意識的か無意識的かにかかわらず人間の生き方を規定している条件みたいなものだ。
何かを欲しいと思いそれを獲得するために努力することで、実際にそれを獲得することができる、もしくはその可能性が高まる(=世界の側からのレスポンスがある、解答がある)類の対象がある一方で、人が強く求めても世界の側は一切応じてくれないもの、例えば「生きる意味」などがある。
そして、悲しいかな、人がより強く希求しているのは前者よりも後者だろう。
そこに人間の悲しみ、苦悩の源泉があるように思う。
僕はあくまでこの事実(と僕が考えること)を書きたかった。
この事実から「じゃあ自分で意味を作っていけばいいんだ」とか「意味なんてそもそも考える必要ない。解答が配られないテストを受ける意味がないのとおんなじ」
みたいにそれぞれの勝手だ。
この事実から、ではどう生きるのが良いのか、について僕はまだ考えがまとまっていない。
p.s 何かを頑張る・注力したことに対して世界から何のレスポンスも得られない、という絶望的な状況について考察している本があるので一応紹介しておく。
『シーシュポスの神話』カミュ(著)
おわり