三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

趣味的な、居心地の悪さ

山崎ナオコーラ氏の『趣味で腹いっぱい』を読んだ。

 

主人公の鞠子は、夫の小太郎との二人暮らし。鞠子は趣味に生きるため専業主婦になる。小太郎のモットーは「働かざるもの、食うべからず」。でも、鞠子のことは好き。だから、鞠子の生き方に少し疑問あり。でも、あこがれもあり。

 

思ったことは、こういった「趣味人」としての暮らしは女性のほうが始めやすいだろうということ。そして、趣味に生きることを社会的な挫折の結果としてしか考えられない自分のどうしようもなさについて。

 

女性のほうが社会的地位を求める浅ましさから自由だな、とは常日頃から思う。ただしそれが、どうせ出世を見込めないだろう、という絶望を人生の早い時期から味わった結果だとすると、気軽に羨ましいとは言えなくなる。このことについては宮台真司氏が書いていただろうか。その文章を読んだときハッとした。女の子のほうが精神的発達が早いとはよく言われるが、社会的成功の可能性が男子に比較して小さいという絶望が彼女らを「大人」にさせているとしたら、何となく悲しいなと思った。小太郎は高卒であることが昇進のスピードを緩めている、もしくは昇進の壁を作っていると感じている。もし小太郎が社会的な成功を信じ続けられていたら、鞠子の生き方を肯定できただろうか。

 

何かをやり始め、挫折し、だからこそ優しくなれたというものの見方が嫌いで、それなら挫折を知らない(と思っている)人は優しくなれないのかなと思う。「挫折」って何なのかイマイチよくわからないけど、優しくなるために挫折を経験しないとダメって、幼稚園児は挫折してないけど優しいだろうって思う。

 

苦労した分だけ強くなれる、優しくなれるっていう考えが嫌いなのかもしれない。強くなるのも優しくなるのも、別に「特定の何かを経験した」という条件付きのものではないだろう。その「特定の何か」が、「正社員」だとか「部長」とか「東大卒」とか「フォロワー1万人」とかそういうものなのかなと思う。それじゃ世の中の人全員が優しい世界というのは存在しなくなる。何かの条件を措定した時点で。

 

「2段構えのアイデンティティー」みたいなことを友人が言っていた気がする。客観的・主観的の2つの観点で、自分を見る。自分のイメージは、「主観的」のほうは、「無根拠に」に近い。無根拠に自分の存在を肯定できること。無条件に、と言ってもいい。無条件に自分の存在を肯定できるからこそ、客観的な指標で測られることにも耐えられる。

 

じゃあ、客観的な指標によってアイデンティティーを構築する割合を減らして、無条件な肯定をメインに生きていこう、と思えばいいのかと言うと、多くの人には難しいだろう。ほんと、どうしようもない。鞠子はすごく強い人間だと思う。

 

おわり