三大欲求

自己顕示欲・承認欲求

思いつき。ミスチルも単純作業してる

近頃ミスチル(Mr,children)の曲をよく聴く。「HANABI」とか「終わりなき旅」とか、とかとか。人気なだけあるなあ、とか思いながら。

 

で、何曲か聞いている中で、たまたま「彩り」という曲に出会った。

 

この曲を知らない人は、歌詞を検索してみて。一言で紹介すると、この歌は、歯車のための応援歌、くらいになる。社会の歯車として日々勤しむ人々に向けて、その生活にも歯車なりの彩りがあるでしょう、という歌。

 

最初にこの歌を聞いた時に次のように感じた。

 

単純作業から最も遠く離れた人が「単純作業も人のためになってるよ~」って歌ってる。この人は、単純作業を何十年もしている人の気持ちってわかるんかな。

 

まあ、もう聴くなよって話(一応書いておくと、2回くらい聴きなおして、それ以降聴いていない。それでよろしい)。しかもタダで聴かせてもらっておいて(実際はスマホの使用量を払っているからタダではない)。

 

冷静に考えると、ミスチルくらいに成功して、影響力をもっていて、経済的に困っていないからこそ、「単純作業も人のためになってるんよ~」と言える。つまり、それが強がりに聞こえない。経済的に余裕が無くて、それで精神的にも貧しい人が同じ歌を唄ってたらどうか。今それを想像してみて、それはそれで悪くないし、なんなら私はそのバージョンの方が響くかもしれない。と、そう思いつつ、一般的には強がっていると受け取られるだろうとも思う。

 

パートナーのいない男/女が「一人でも楽しい」と言うこと。持っているお金の量が相対的に見て少ない人が「お金が全てじゃない」と言うこと。高校に行っていない人が「勉強だけできても仕方がない」と言うこと。

 

世間では持っていたほうが良いとされているものを、実際に(少なくしか)持たず、それでいて、その当のものを、持っていなくても良い、もしくは持っていない方が良いと言っている時、世間的には「強がり」と受け取られるものと思う。

 

だから、結局多くの人に声を届けられるのはいわゆる「成功者」であって、ミスチル自身が「単純作業」に日々勤しんでいなくても、(”本当に”単純作業に勤しんでいる人の)声を代弁できるのはミスチル(orミスチル的ポジションにいる人たち)でしかない。

 

まあ、だから「歌い手と歌詞のミスマッチ」はしゃーないかな、と。つまり、自分のことを棚上げにしないと何も歌えない、と思っていた。

 

そんなことを考えていた(のが1か月くらい前な)のだけど、今日、ふと「ミスチルがしていることも(ミスチルにとっては)『単純作業』なんじゃね?」と思った。

 

マジで陳腐な発想かもしれないけど、ミュージシャンだろうが、マジシャンだろうが、作家だろうがなんだろうが、結局は市場調査をして、それに合ったモノ・サービスを提供してんだよね、と思った(思ってしまった)。

 

夢が無い話だけど、どれだけ天才肌っぽい人でも、そのままの形で世に認められると言うことは稀(なはず)で、たいていは”整形”にかなりの労力を費やしているはずだ。自分の才能を、才能の無い者どもでも美味しい美味しいと言って食べられるように、調理する。変形させる。整形する。

 

ミスチルもその一人、かは知らない。自分が思っていることをそのまま歌詞にして、思ったまま歌っていたら売れに売れたのかもしれない。それは知らん。

 

けどもしそうじゃないとするなら、音楽の詳しいことを何も知らず雰囲気だけで好き嫌いを語る大衆(それが悪いとは全然思わない。私自身そうだし。むしろ趣味に対して浅い/深いと言ってる奴がうっとうしくて仕方がない)に向けて、自分の才能を”整形”する作業は「単純作業」以外の何物でもないのでは、と思うのだ。

 

なんとな~くのイメージで、私たちは、「ミュージシャンはこんな風に作曲するのかな~♡」みたいに思ってるけど、現実はそんなことないないかもしれない。

 

「かもしれない」ということに気が付けて良かったと思っている。今回書きたかったのはそれだけ。無意識的に、「売れっ子ミュージシャン」という枠にはめて人のことを見ていた、ということ。

 

あと、付け加えるとすると、「応援歌」って何なんだろう、ということ。特に「応援歌」が「売られる」ということはどういうことなのだろう、ということ。

 

特定のミュージシャンを批判したいわけではない。「応援歌」とか「応援ソング」とか言われているもの一般に対して、なんとなく違和感を抱くようになっている。ここ5年くらいかけて。原因は不明。

 

自分たちは、歯車であることを選ばなかった人々が、歯車である人を励ますのは、(上で書いたように、歯車でないからこそそういった歌を唄えて、人に届けられるという点を考慮しても)どこか不自然に思う。

 

私が勝手にそう思っているというだけ。

 

こういったことをさんざん言われ・書かれ、しても歌い続けている人が、”大人”と呼ばれる人たちなのかもしれないなぁ、と思う。

 

以上

 

 

 

 

 

 

不安なこと⑦ いつか死ぬこと

正確に言うと「不安」ではない。「不安」は起こるかどうか分からない事に対して抱く感情だと思う。そして、死はほぼ確実に訪れる。だから、単に、恐れている、と言った方が近い。

 

理由は単純で、自分という存在がこの世界から完全に消えてしまうのが怖いからだ。理由になっていないだろうか。なぜそれが怖いのか、と尋ねたくなる人もいる?

 

逆に言いたいのは、「怖い」という感情は、そもそも「この世界から消える」ことを避ける気持ちなのでは、ということ。

 

例えば、ライオンや深い池やホラー映画や『ジョーズ」やらを見た(観た)時に、私たちは「ゾッと」するけれど、それは結局、死ぬ(可能性の高い)ことから、私たちを離れさせようという身体(精神でもどっちでもいいし、その両方でもなんでもいい)の働きだ。

 

「フライトorファイト(Flight or Fight)」だったっけ。生命を脅かすようなものに出くわした時の動物(人間)の反応は。逃げるか、もしくは闘うか。「ゾッと」するのは、すぐに逃げ出すか、闘うかの準備を、体が勝手に始めているということ。

 

「ライオンとかサメに噛まれると痛いっぽいから、それ考えると怖いのん」というのも、なぜ痛いのがダメなのか、身体の目線で考えればいい。「痛い」は「この世界から消える」に近づいているサインでしょう。

 

だから、人間の暮らす社会がどれだけ複雑になろうとも、恐怖という感情は「死」=「この世界から消えること」に起因しているものであって、何かしらの恐怖心を抱いている場合は、今の状況からどのルートを辿って死に至る可能性があるのか考えてみるとよいのかもしれない。唐突にアドバイスを発してしまった。

 

まあええわ。

 

で、何が言いたかったかというと、そもそも「怖い」という感情は「この世界から消えること」を避ける気持ちなのでは、ということで、まあ、それはそうだ、ということに一応しておこう。

 

書きたいことの9割は終わってしまったな。

 

①死ぬのが怖い。

②そもそも怖いという感情は、死ぬことを避けたい、と同じだ。

③だから、①というのは間違っていない。

 

みたいな?

 

でも、これだと何も言っていないというか、「私は『怖い』という言葉を(定義まで考慮して)適切に使っています(チャンチャン♪)」以上の話ではないように思える。

 

だからどうした、と。

 

でも、「だからどう」しようもないから私にとっては問題なのだ。

 

「恐怖」という言葉を正しく分析してみて、「あ、これは『死を避けるきもち』のことなんだ」と思って、それをノートに書いて、ブログに書いて、人に話して、歌にして、小説にして、ノーベル文学賞もらって、YouTubeにアップして、登録者が増えて、広告でお金がもらえて、すると若干モテるようになって、彼女ができて、「来週どこ行く?」とか電話して、そのうち子どもができて、ゲーム買い与えて、門限作って、会社に行って、居酒屋言って、キャバクラ行って、

 

その帰り道に「あ~、自分いつか消えるんか~」みたいに思って虚しくなる、という。

途中で何をしたって、結局「消える」ことが恐ろしい。

 

いろいろと作って、見て、話して、食べて、割って、騙して、汚して、拭いて、叩いて、こねて、踏んで、揉んで、撫でて、噛んで、聴いて、途方に暮れて、決めて、向かって、破壊して、守って、登って、降りて、

 

するけど、それらすべての経験が「消える」ことはすでに決まっていて、それがどうやら、「どうしようもない」ことらしいのがどうしようもなくイヤだな~と思ってます。って話。

 

以上

不安なこと⑥ 体臭

現代の病である。

 

体臭、体毛、肌質、髪質などなど、物理的に自分の外側に発しているものに対して過敏になっているのが現代人だと思う。私もその一人、ということ。

 

女性に比べれば私の、自分の身体に対する意識なんて、低すぎて話にならないだろうけど、それでも、マイナスな発信をしていないかは、とても気になる。

 

上に、あえて体臭と体毛・肌質・髪質を並べて書いた。4つとの現代人が、というより私が気になりがちなものだから。でも、体臭と後ろ3つとの間には、それが目に見えるかどうかという大きな違いもある。目に見えるかどうか、という観点で言えば、私にとって体臭は一番厄介だ。

 

だから、まあ、コントロールできないってことだよね。問題は。厳密に言うと、何事もコントロールできるとも言えるし、できないとも言えるのだけど、体臭とか臭いは、そのコントロールが、他の事に比べて相対的に難しい。

 

で、コントロールが難しいかどうかという観点で言えば、容姿なんてものは、かなりの部分が生まれ持ったもので決まってしまうのだけど、身だしなみに気を付けていれば、そこまで人の気分を害することはないと思う。というより、ここが大事だと思うのだけど、たとえば外出先でシャツにケチャップが付いた、とかだったら自分の目で見て、修正できる。つまりコントロールができる。骨格とか、肌質・肌の色、みたいな要素は、先天的に決まっていてuncontrollable(なんか英語で書きたくなってきた)だけど、その日の見た目のコンディションは、かなりの部分controllableかなと。

 

その点、体臭とか臭い系はメンドクサイ。例えば、1日外出して、帰りに電車に乗った時、「自分汗臭くないかな」と気になっても、確かめる方法が少ない。なんか、自分では自分の臭いってあまり分からないし。よっぽどでない場合以外。友達と一緒にいるとかだったら、「おれ汗臭くない?」ってギリ聞けるかもってレベル。それもキホンしたくないけど。

 

解決策は、まあ、シャツの替えなどを持ち歩くことと、汗拭きシート(なんて言うのか、あれ)を使うこと、あと、キツくない香水とかつける、くらいか。香水は試せてないな。なんか、余計くさくなるのでは、みたいに思ってしまっている。そんなことないだろうに。

 

人って、緊張したり、ストレスを感じたりすると、汗のにおいがきつくなるらしい。そうらしい。当たってるかなって思う。

 

やっぱり私は、いろいろとcontrollableであることを求めているのだと思う。不安って、uncontrollableな状態に自分がいる時に感じるもの、とも言えるかもね。

 

以上

 

 

 

 

不安なこと⑤ 職場の人間関係

人生、運の要素が大きすぎやん、という。

 

「運」って言葉は、まあ、なんというか、結局あっても無くても同じな気がする言葉で。「心」とか「魂」とか、それこそ「運命」みたいに、その言葉があるが故に、その言葉の対象が存在している気がしてくる、みたいな。それくらい頼りない言葉だと思う。まあ、そもそも言葉なんてどれも「あっても無くても同じ」なのかもしれないわけで。

 

で、「運」という言葉をあえて使うとして、職場にどんな人がいるのかっていうのは、ほぼ運じゃん、と思う。しかも、運で決まるくせにドでかい問題になりうる。こわいな~っていう。

 

以上

 

としてもいいけど、もう少しだけ書くか。

 

職場の人間関係もそうだし、どんな家庭環境のもとに生まれてくるのかもそうだし、どんな顔形で生まれてくるのか、つまりどんな遺伝子を持って生まれてくるのかもそうだし、人生の大問題に、「運」影響しすぎ。

 

だからだろうけど、ハクスリーが『素晴らしい新世界』で描いているような(描いてなかったらすみません)、試験管の中で遺伝子操作をしちゃうような世界が、私には全然ディストピアに思えない。そういった遺伝子の選別に対して批判的な人が、もしも現在の社会(=この世界)でマジョリティだとするなら、その主張ってかなりバイアスがかかっているのでは、と思う。自分が、先進国に生まれたから、美人に生まれたから、IQが高く生まれたから、お金持ちの家に生まれたからetc...もちろん、遺伝子の選別に肯定的な意見も、もしかするとその主張をしている人がこの世界でマイノリティに属していることによるバイアスド(biased,造語かも)な意見かもしれない。けれど、両者が同じくバイアスドな意見なのであれば、巨大な格差のような、より悲惨な事態が起きうる選択肢(まあ、つまりはこの世界で起こっていること)は控えるべきでは、というのが私の意見。あと、遺伝子選択の問題と「どこの国(地域・家庭)に生まれるか」は別問題なのだけど、より解決しにくい問題(=「どこの国に(地域・家庭)に生まれるか」)は後回しにして、先に(相対的に)解決しやすい問題(=遺伝子格差)に取り組めば?と思う。

 

そう言えば、もともとこの文章は「職場の人間関係」について書いていたんだった。遺伝子格差を是正しても「職場の人間関係」はまだ「運ゲー」のままか。残念。

 

「職場の人間関係」について考えていたつもりが「遺伝子格差」の話になるというのは、おそらく「遺伝子格差」の方が取り組みやすい課題だと私が考えているからだろう。「職場の人間関係」の方が、「遺伝子情報」よりも、(直観に反して)変数が多い気がして、倫理的にどうかを置いておくなら、後者の方がコンロトールしやすいと思う。遺伝子情報って、私は詳しくないけれど、多くても1億とか10億くらいのスケールなのでは。

 

混乱してきた。「遺伝子格差」って、私には(子供をもうけないと仮定すれば、もう)関係ない話だ。すでに生まれてきているのだし。一方の、「職場の人間関係」について、究極的に考えるべき変数は、「その職場に居続けるか、退職するか」の2択。とすると、ゲノムが1億とか10憶くらいのスケールなのに対して、こっちは2択。「遺伝子格差」の方が「職場の人間関係」よりも取り組みやすいなんてこと全くないのか。「職場の人間関係」ってすごくシンプルな問題なのでは?

 

つまり、視点をどこに置くかで問題の複雑度(?)が変わる、という話なのかもしれない。「遺伝子格差」って、どうしても(私たちはもうすでに生まれているので)客観的な、第三者的な視点からしか取り組めない問題なので、「イケメンに生まれるか/ブサイクにうまれるか」みたいな2択にもちこめない(「どの個体の遺伝子も完全に均一にする/個体差を残す」みたいな意味での2択は考えられるなぁ...)一方の「職場の人間関係」は、究極的には、個人の意思で決着できる問題だから「居続ける/やめる」の2択に落とし込める。

 

無理やりまとめようとしてない?わからない。マジで(人情味が無いという意味で)冷たい論理を構築している気もする。まあでも、一見複雑そうな問題も、実はめっっちゃシンプルであるってことに気が付ける(可能性がある)ってのはある種の救いがあるか。

 

以上

不安なこと④ ニキビ

「不安なこと③」から間が空いた。

空いてもまた再開すれば何も問題なし。

 

今回も自意識だ。ほぼ、私のブログは自意識に埋め尽くされているから今さら気にしなくてもいいよね、と。

 

さて本題。

 

人が自分の顔に自信がもてなくなる要因はいくつかあると思う。例えば、骨格が気に入らないとか、一重(二重)であるとか、各パーツの配置だとか、云々。

 

私の場合は、上に書いた要因のほかに、ニキビもはいってくる。正確には、ニキビが治っている時期もあるので、ニキビそれ自体もしくは軽くニキビ跡があること、が顔に対しての自信を失わせている。

 

それで、何が不安か。何が不安なんだろう。

 

「不安」と言うと少しずれる気もしてきた。そんなことないか。

漠然と顔にニキビがあるのが嫌なのだけど、なんでだろう。

 

傷(跡)は、たいていの場合隠される。

切り傷には絆創膏を貼るし、より大きな怪我だと包帯を巻いたりする。

 

ニキビは、その点中途半端だ。血が出ている場合もあるかもしれないけど、たいていはひどくても、出血の一歩手前ということが多い。じゃあ目立たないのかというと、そんなわけはなくて、ニキビがそこにあることは別に意識しなくても目には入ってくる。

 

う~ん。こう書いたものの、じゃあ、顔に軽い切り傷があったとして、それがニキビほど嫌かと言うとそうでもない気がしてきた。切り傷の場合ももちろん嫌なんだけど、ニキビ特有のいや~な感じがそこまでないというか。

 

どっちかというと「顔に油性インキで落書きした跡が残っている」みたいなののほうが感覚的に近い。切り傷の方が、油性インキよりも「不可抗力でこうなってしまったんですよ」というメッセージが伝わりやすい気がする。

 

つまり、ニキビって、自己管理のできてなさの代名詞みたいで嫌だってことだと思う。だれが言っているわけでもないのだろうけどさ。

 

今の社会で好まれるワードとして「清潔感」がある。で、その「清潔感」を測るバロメータとして、服装・髪型と並んで「肌のキレイさ」がよくあがっている気がする。なんなら、「肌のキレイさはマスト」と書かれている気がする。

 

こういった文章を見るたびに、私は心のなかで「『私は不潔です』というメッセージを発してしまっているのかもしれない」と、落ち込む。

 

自分の意思である程度なんとかなる服装・髪型と(「髪型」に関しては何とかならない場合も多いと思うけど)肌質を同列に置くのはどうかと思う。

 

いや~、愚痴っぽいな。

 

で、何が不安かと言うと、自分が知らぬ間に「私は不潔です」というメッセージを回りに発信してないかっていう不安と、(良い人ぶって書くとすると)周りに不快感を与えていないかという不安。

 

後者は、人のことを気にしているフリして結局自分が可愛いだけなのかもしれないから堂々とは書けない。

 

本題とはズレるけど、こう書いてきて、「これまで通り皮膚科でもらった薬はちゃんと飲んで(塗って)できるだけニキビができにくくしよう」という意志は固くなっている。こう愚痴みたいなことを書いて「社会の方が変われ」みたいになったら、それはそれで違うなと。

 

私も実際、わざわざ口にしないだけでキレイな肌の方が好きなわけで。

 

おしゃれかどうかとか、ルッキズムとか、ファッションセンスとか、とかとか。そういった局面で、「弱者」とされる人が恐れているのは、「おしゃれさ」、「美」、「ファッションセンス」が無いとみなされることであるし、それと同じくらい、そういったもの(「おしゃれさ」等)に関心が無いとみなされることなのでは、という気がしてきた。

 

つまり、私の場合、顔にニキビがあることによって、不潔であるとみなされることを恐れているし、それと同じくらい「不潔かどうかに関心が無い人なのだ」とみなされることを恐れている。

 

この2つって同じことなのか。同じではない気がするけど。どっちかと言うと後者の方が私にはより怖いことかもしれない。「今日この人は不潔である」という一回限りの事実についての判断ではなくて、「この人は自分が不潔かどうかを気にしない人なんだ」と人格についてまで判断が及んでいる感じがするから。

 

いずれにしても、私がすべきことは(できることは)肌質を改善・維持することでしかないので、そこに専念すべし。社会をどうこうできるわけではなく、というかそもそも社会が悪いわけでもないかもしれないので、まずできることをする。

 

ルッキズムについて云々したくなってきた。どうしようもない問題だとは思う。そのどうしようもなさを延々と書いてみたい気がする。そんなに暗い感じにならずに書けるといいな。

 

以上

 

 

 

 

 

不安なこと③ 言いたいことが咄嗟に言えないこと

「不安なこと」と題して文章を書くこと、それ自体を少し負担に始めている。ネガティブな人だと思われるのでは、という自意識。でも、その反面、日常生活においては、このタイトルで文章を書いてから、ごくわずかに調子が上向いてきている気もするので続けて書いていく。

 

言いたいことが言えないというのはかなり苦しい。私は24歳の今まで友人に恵まれ、中高においても、クラスメイトと「うまく」やってきた方だと思う。ただ、ごく一部の「親友」と呼べる人たち以外とのコミュニケーションには、常にある程度の難しさを感じていた。その難しさとは詰まる所なんなのかが分からなかったが、ここ数年で、それらが「言いたいことが咄嗟に言えないこと」に起因するもの、もしくはそれ自体であるのだろうと思うようになった。

 

上下関係がある場合は言わずもがな、対等な人同士の会話においても、言いたいことが上手く言えない気持ち悪さを頻繁に感じる。上手く言えない、と書くと伝え方の巧拙の問題のようだ。それもあるけど、今書きたいのは、言いたいことは思い浮かぶけど、そもそもそれを口に出せないという状況。まあ、言いたいことをそもそも口に出せないというのも、伝え方が非常に下手、と言う意味で伝え方の巧拙の範疇に入るかしれない。

ただ、口に出してから、「もっとこう伝えればよかった」と反省する場合とは、性質が違うということが大事な気がした。つまり、今書いている話は、そもそも言いたいことを口に出していない状況について、ということ。

 

では、言いたいことはあるけれど口をつぐんでしまうというのは、どんなタイミングか。これはあくまで私だけの話かもしれないが、たいていは、その場の「力関係」において、私が相手(複数の場合もあるだろう)よりも下であると私が(勝手に、多くの場合無意識的に)判断した場合だ。力関係、などという言葉が私の語彙の中にあること自体が少し悲しいのだけれど、そう書くと分かりやすいし、自分自身整理しやすいので使う。

 

そもそも、言いたいことが言えないことをなぜ避けたいのかと言うと、その状況が私にとってストレスフルであるからだ。そして、なぜストレスフルかと言うと、私に決定権が無いからなのだと思う。仮に、私がある場の「力関係」において一番力があるとする。その時に、例えばあるツッコミを思いついたとする。でも、そのツッコミは多少シャープで、もしかすると相手を傷つけるかもしれない。その場合、私は、自分の判断で、ツッコミを若干マイルドなものにするかもしれない。でも、もしかすると、ツッコまれる1名を犠牲にして、その場の笑いと自身の「おもしろキャラ」を取るかもしれない。

 

例えば逆に、私がその場において一番力的に弱いとする。そして、一番力の強い者に対して、シャープなツッコミを思いついたとする。さて、その場合、私には、シャープなツッコミを入れる自由、実質的な自由はあるだろうか。少なくとも私の場合は、そこに

は強力な力がはたいているように感じられる。多くの場合、シャープなツッコミはおろか、マイルドなツッコミさえ、私は入れられない。

 

「ツッコミ」とすると、友人間だけでもコミュニケーションに話が限定される感が否めないけど、まあでも、あながち間違っていない。なぜなら、ここでのポイントは、上にも書いたように、「対等な人同士の会話においても」という点だから。

 

で、おそらく、私がなぜ「言いたいことが咄嗟に言えない」ことに対して強いストレスを感じるのかの答えがここにある。すなわち、一見「対等」に見える関係性が実は対等でない様を、私が自身の言葉の出なさによって知らされる気がするからだ。

 

表面的には仲良くしているが、やはり私はこの人に気を使っている。こう感じる時、なぜ私たちは同じ時間をともにしているのだろう、と不思議になる。私が相手に気を使ってしまっている時、おそらく相手も私に気を使われていることに気づき、多少気まづくなっている。そこで「なんか気まずいな!」と言えればいい。ほんとはそう言いたい。言ってしまいたい。でも、なんとなくそう言えない。

 

なんか、嫌なこと書いてるな、自分。言い訳めいたことを書く。

 

「力関係」とか、日常生活で気にすることはほとんど(ほとんどは言い過ぎかも)ない。で、だからこそ、言いたいことが言えない時に、「これは力関係が~」みたいに考えてしまった時のインパクトが強くて悩む。あと、言いたいことが言えない時にストレスを感じるというのは、表面的にではあれ、その相手のことを友達と思いたいと言うこと裏返しである。そんな裏表のある感情で「友達」とか言うなって話かもしれないが、そもそも友達かどうか全く考えない相手、例えば電車でたまたま隣に座った人なら、不満に思ったことがあったとしても、それを言うことが面倒なことにつながりそうなら、何も言わない。どうでもいいっちゃどうでもいいから。だから相手のことを友達だと思っているから、思っていることを言えない時に、なんか違和感があるというか。

 

う~ん、そもそも「友達かどうか」なんて気にして生きていないな、普段。いや、たまに考えてしまっているのか。だから、つまり、「この人は友達かどうか」なんて野暮ったいことを考えたくないのに、「思ったことを思ったように言えない」せいで、「この人は友達ではないのでは」と考えてしまうのが鬱陶しいし、ストレスフルだ。

 

変に続いてしまいそうなので終わる。

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不安なこと② 専門性を身に着けている同世代から置いていかれているのでは、と考えてしまう

高校進学時点で私は文系に進学した。大学も文系だ。文系で専門職と言うと、法律系か経営(会計)か心理系などが思い浮かぶ。ただ、私の認識では、どれも専門技術、と言う感じがしない。私にとって、専門技術とは、車のブレーキが作れるとか、航空機の設計ができるとか、諸々のプログラミングが組めるとか、それこそ高等数学を使って何かしらの仕事ができるとかだ。そういった理系の専門技術を身に着けることは、高校進学時点で文系に進んだ自分にとって、望むべくもなかった。そもそも、高校進学時点、大学進学時点ではそれほど深刻に考えていなかった。それが、就職について考える際に、理系の専門職が羨ましく思えてきた。

 

理系の専門職に対して私が羨ましさを感じるのは、それらの職が、「他の人にはできない」という感じを強く感じさせるからだ。つまりは、替えがきかないということ。実際には、理系の専門職であっても、同業他社には、同じような技術者は存在しているだろうから、本当に替えがきかないかというとそういうわけではないだろうけど、他の職種よりも替えがきかない度合いは高いように思う。

 

それで、そういった専門技術を扱う仕事についた同世代が、今日も、少しづつレベルアップしているのだろうかと考えて、自分との差が開いているように感じ、焦る。専門技術のレベルを上げている人がいると、相対的に自分の「市場価値」が下がったように感じるからだろう。

 

別に何かの一つの競争をしているわけでもないのに、勝手に不安になってしまう。究極、アルバイトを一生していっても、死ぬわけではない。アルバイトで求められている「専門性」があればよい。そして、アルバイトの中には、ほとんど専門性が要求されないものもあるから、そういった仕事を探していけば、最悪死なない。つまり、生きていくためだけなら、ほぼ専門性が無くても大丈夫ということ。

 

そう考えると、なぜ専門性に駆り立てられるのだろうと不思議になる。半年くらい前までは、専門性の高い仕事についた方がモテるから、くらいに考えていた。で、今の私は、特別モテたい欲があるわけないのに、専門性をすっぱり諦められているかと言うと怪しい。おそらく、モテる/モテない以前に、専門性のあるなしは、何かしらの安心感につながっているのだろう。だから、私は無意識的にそれを求めている。替えがきかない存在として社会から必要とされるということは、仕事に困らないということだから。

 

ただ、ここでも同じ事が言えて、「仕事に困らない」ことを求めているのなら、別にアルバイトをすればいいだけの話なのだ。とすると、やはり、残るのは、同じ時間働くなら多くのお金が欲しいとか、より高い地位が欲しい、という動機だ。それらがモテにつながるかどうかは置いておいて、本能的にそういった金・地位を求めているということ。

 

結局、私が焦っているのは、人よりもお金を儲けたいとか、高い地位につきたい、凄い人だと思われたい、という気持ちがあるからだ。そういった気持ちは、別に持っていて悪くはないと思う。むしろ、生きていく上で必要だろう。おそらく大事なのは、私は、極論、何かしらの分野の専門技術を身に着けたいというよりも、お金・地位・名誉を欲しているということ。そういった漠然とした欲求を持っているのみだ、ということ。

少なくとも、これまではそうであったということ。

 

これから、もし、何かしらの分野で専門的な仕事がしたいと思ったときは、その時から始めればいいのでは、とも思う。おそらく、その時に同世代の人と比べたり、先にその分野を進んでいる人を見て焦ったり、嫉妬したりするとすれば、それはその分野ですること自体と言うよりも、社会的な成功の方が大事、と感じていると言うことなのかなと思う。もちろん同業者がたくさんいて、それもその人達がその分野に熟達している人ばかりであれば、あとから参入するものには仕事すらないかもしれない。その時私は諦められるのか。本当にその分野で仕事がしたければ、それこそアルバイトをしながらでもやっていけばいいのだな。しんどければ、他の仕事をするか、それこそアルバイトだけで生きていけばいい。アルバイトだけで食べるのも、もちろん相当大変だと言うことは分かる。ただ、たくさんお金を稼ぎたいわけではないのなら、アルバイトで生きていくことも、実は全く間違っていないのでは、と思う。それを無理に正社員にならなければいけない、専門性を身につけなくてはならない、と思ってしまうのはどうかと思う。

 

自分で自分に「負け惜しみを言っているな」と思うことが無い人になりたい。それが一番大事だと思う。

 

以上